いかと問合せの手紙が来てゐた。倉敷の妹からも、その途中彼に立寄つてくれと云つて来た。だが、旅費のことで彼はまだ何ともはつきり決心がつかなかつた。
ある日、彼はすぐ近くにある、井ノ頭公園の中へはじめて足を踏込んでみた。ずつと前に妻と一度ここへ遊んだことがあつたが、その時の甘い記憶があまりに鮮明だつたので、何かここを再び訪ねるのが躊躇されてゐたのだつた。薄暗い並木の下の路を這入つて行くと、すぐ眼の前に糠のやうに小さな虫の群が渦巻いてゐた。彼は池のほとりに出ると、水を眺めながら、ぐるぐる歩いた。水のなかの浮草は新しい蔓を張り、そのなかを、おたまじやくしが泳ぎ廻つてゐる。なみなみと満ち溢れる明るいものが頻りに感じられるのだつた。
彼が日に一度はそこを通る樹木の多い路は、日毎に春らしく移りかはつてゐた。枝についた新芽にそそぐ陽の光を見ただけでも、それは酒のやうに彼を酔はせた。最も微妙な音楽がそこから溢れでるやうな気持がした。
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とおうい とおうい あまぎりいいす
朝がふたたび みどり色にそまり
ふくらんでゆく蕾のぐらすに
やさしげな予感がうつつてはゐないか
少年の胸には
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