たのだ。彼の原稿が少しづつ売れたり、原子爆弾の体験を書いた作品が、一部の人に認められて、単行本になつたりした。彼はどうやら二年間無事に生きのびることができた。だが、怪物は決して追求の手をゆるめたのではなかつた。再びその貌が真近かに現れたとき、彼はもう相手に叩き与へる何ものも無く、今は逃亡手段も殆ど見出せない破目に陥つてゐた。
「君はもう死んだつていいぢやないか。何をおづおづするのだ」
 特殊潜水艦の搭乗員だつた若い友人は酔ぱらふと彼にむかつて、こんなことを云つた。虚しく屠られてしまつた無数の哀しい生命にくらべれば、窮地に追い詰められてはゐても、とにかく彼の方が幸かもしれなかつた。天が彼を無用の人間として葬るなら、止むを得ないだらう。ガード近くの叢で見た犬の死骸はときどき彼の脳裏に閃めいた。死ぬ前にもう一度、といふ言葉が、どうかするとすぐ浮んだ。が、それを否定するやうに激しく頭を振つてゐた。しかし、もう一度、彼は郷里に行つてみたかつたのだ。かねて彼は作家のMから、こんど行はれる、日本ペンクラブの「広島の会」に同行しないかと誘はれてゐた。広島の兄からは、間近かに迫つた甥の結婚式に戻つて来な
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