その晩だつた。
 騒々しい神田の一角から、吉祥寺の下宿の二階に移ると、彼は久振りに自分の書斎へ戻つたやうな気持がした。静かだつた。二階の窓からは竹藪や木立や家屋が、ゆつたりと空間を占めて展望された。ぼんやり机の前に坐つてゐると、彼はそこが妻と死別した家のつづきのやうな気持さへした。五日市街道を歩けば、樹木がしきりに彼の眼についた。楢、欅、木蘭、……あ、これだつたのかしら、久しく恋してゐたものに、めぐりあつたやうに心がふくらむ。……だが、微力な作家の暗澹たる予想は、ここへ移つても少しも変つてはゐなかつた。二年前、彼が広島の土地を売つて得た金が、まだほんの少し手許に残つてゐた。それはこのさき三、四ヶ月生きてゆける計算だつた。彼はこの頃また、あの「怪物」の比喩を頻りに想ひ出すのだつた。
 非力な戦災者を絶えず窮死に追ひつめ、何もかも奪ひとつてしまはうとする怪物にむかつて、彼は広島の焼跡の地所を叩きつけて逃げたつもりだつた。これだけ怪物の口に与へておけば、あと一年位は生きのびることができる。彼は地所を売つて得た金を手にして、その頃、昂然とかう考へた。すると、怪物はふと、おもむろに追求の手を変へ
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