のミシン仕事も思はしくないので、下宿屋を始めたのだが、「この私をご覧なさい。十万円貯めてゐましたよ。そのうち六万円で今度、大工を雇つたのです」と姉は云ふのだつた。ここは爆心地より離れてゐたので、家も焼けなかつたのだが、終戦直後、姉は夫と死別し、二人の息子を抱へながら奮闘してゐるのだ。だが、その割りには、PL信者の姉は暢気さうだつた。「しつかりして下さい。しつかり」と姉は別れ際まで繰返した。
 明日は出発の予定だつたが、彼はまだ兄に借金を申込む機会がなかつた。いろんな人々に遇ひ、さまざまの風景を眺めた彼には、何か消え失せたものや忘却したものが、地下から頻りに湧き上つてくるやうな気持だつた。きのふ八幡村に行く路で雲雀を聴いたことを、ふと彼は嫂に話してみた。
「雲雀なら広島でも囀つてゐますよ。ここの裏の方で啼いてゐました」
 先夜瞥見した鼬《いたち》といひ、雲雀といひ、そんな風な動物が今はこの街に親しんできたのであらうか。
「井ノ頭公園は下宿のすぐ近くでせう。ずつと前に上京したとき、一度あの公園には案内してもらひました」……死んだ妻が、嫂をそこへわざわざ案内したといふことも、彼には初耳のやう
前へ 次へ
全24ページ中21ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
原 民喜 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング