く咄嗟にペンをとつて書いた。それから彼はMと一緒に中央公民館の方へ、ぶらぶら歩いて行つた。Mは以前から広島のことに関心をもつてゐるらしかつたが、今度ここで何を感受するのだらうか、と彼はふと想像してみた。よく晴れた麗しい日和で、空気のなかには何か細かいものが無数に和みあつてゐるやうだつた。中央公民館へ来ると、会場は既に聴衆で一杯だつた。彼も今ここで行はれる講演会に出て喋ることにされてゐた。彼は自分の名や作品が、まだ広島の人々にもよく知られてゐるとは思はなかつた。だが、やはり遭難者の一人として、この土地とは切り離せないものがあるのではないかとおもへた。……喋らうとすることがらは前から漠然と考へつづけてゐた。子供の時、見なれた土手町の桜並木、少年の頃くらくらするやうな気持で仰ぎ見た国秦寺の樟の大樹の青葉若葉、……そんなことを考へ耽けつてゐると、いま頭のなかは疼くやうに緑のかがやきで一杯になつてゆくやうだつた。すると、講演の順番が彼にめぐつて来た。彼はステージに出て、渦巻く聴衆の顔と対きあつてゐたが、緑色の幻は眼の前にチラついた。顔の渦のなかには、あの日の体験者らしい顔もゐるやうにおもへた。
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