市役所・国秦寺・大阪銀行・広島城跡を見物して、バスは産業奨励館の側に停まつた。子供の時、この洋式の建物がはじめて街に現れた時、彼は父に連れられて、その階段を上つたのだが、あの円い屋根は彼の家の二階からも眺めることが出来、子供心に何かふくらみを与へてくれたものだ。今、鉄筋の残骸を見上げ、その円屋根のあたりに目を注ぐと、春のやはらかい夕ぐれの陽ざしが虚しく流れてゐる。雀がしきりに飛びまはつてゐるのは、あのなかに巣を作つてゐるのだらう。……時は流れた。今はもう、この街もいきなり見る人の眼に戦慄を呼ぶものはなくなつた。そして、和やかな微風や、街をめぐる遠くの山脈が、静かに何かを祈りつづけてゐるやうだ。バスが橋を渡つて、己斐の国道の方に出ると、静かな日没前のアスフアルトの上を、よたよたと虚脱の足どりで歩いて行く、ふわふわに脹れ上つた黒い幻の群が、ふと眼に見えてくるやうだつた。
翌朝、彼は瓦斯ビルで行はれる「広島の会」に出かけて行つた。そこの二階で、広島ペンクラブと日本ペンクラブのテーブルスピーチは三時間あまり続いた。会が終つた頃、サインブツクが彼の前にも廻されて来た。〈水ヲ下サイ〉と彼は何気な
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