いのでせう」と妹は手にとつて笑つた。
「とてもいいところから貰へて、みんな満足のやうでした」
 先日の甥の結婚式の模様を妹はこまごまと話しだした。
「式のとき、あなたの噂も出ましたよ。あれはもう東京で、ちやんといいひとがあるらしい、とみんなさう云つてゐました」
 急に彼はをかしくなつた。妻と死別してもう七年になるので、知人の間でとかく揶揄や嘲笑が絶えないのを彼は知つてゐた。……妹が夕飯の仕度にとりかかると、彼は応接室の方へ行つてピアノの前に腰を下した。そのピアノは昔、妹が女学生の頃、広島の家の座敷に据ゑてあつたものだ。彼はピアノの蓋をあけて、ふとキイに触つてみた。暫く無意味な音を叩いてゐると、そこへ中学生の姪が姿を現した。すつかり少女らしくなつた姿が彼の眼にひどく珍しかつた。「何か弾いてきかせて下さい」と彼が頼むと、姪はピアノの上に楽譜をあれこれ捜し廻つてゐた。
「この『エリーゼのために』にしませうか」と云ひながら、また別の楽譜をとりだして彼に示しては、「これはまだ弾けません」とわざわざ断つたりする。その忙しげな動作は躊躇に充ちて危ふげだつたが、やがて、エリーゼの楽譜に眼を据ゑると、指はたしかな音を弾いてゐた。
 翌朝、彼が眼をさますと、枕頭に小さな熊や家鴨の玩具が並べてあつた。姪たちのいたづらかと思つて、そのことを云ふと、「あなたが淋しいだらうとおもつて、慰めてあげたのです」と妹は笑ひだした。
 その日の午后、彼は姪に見送られて汽車に乗つた。各駅停車のその列車は地方色に染まり、窓の外の眺めも、のんびりしてゐたが、尾道の海が見えて来ると、久振りに見る明るい緑の色にふと彼は惹きつけられた。それから、彼の眼は何かをむさぼるやうに、だんだん窓の外の景色に集中してゐた。彼は妻と死別れてから、これまで何度も妻の郷里を訪ねてゐた。それは妻の出生にまで遡つて、失はれた時間を、心のなかに、もう一度とりかへしたいやうな、漠とした気持からだつたが、その妻の生れた土地ももう間近かにあつた。……本郷駅で下車すると、亡妻の家に立寄つた。その日の夕方、その家のタイル張りの湯にひたると、その風呂にはじめて妻に案内されて入つた時のことがすぐ甦つた。あれから、どれだけの時間が流れたのだらう、と、いつも思ふことが繰返された。

 翌日の夕方、彼は広島駅で下車すると、まつすぐに幟町の方へ歩いて行つた。道
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