路に面したガラス窓から何気なく内側を覗くと、ぼんやりと兄の顔が見え、兄は手真似で向へ廻れと合図した。ふと彼はそこは新しく建つた工場で家の玄関の入口はその横手にあるのに気づいた。
「よお、だいぶ景気がよささうですね」
 甥がニコニコしながら声をかけた。その甥の背後にくつつくやうにして、はじめて見る、快活さうな細君がゐた。彼は明日こちらへ到着するペンクラブのことが新聞にかなり大きく扱はれてゐて、彼のことまで郷土出身の作家として紹介してあるのを、この家に来て知つた。「原子爆弾を食ふ男だな」と兄は食卓で軽口を云ひだした。が、少し飲んだビールで忽ち兄は皮膚に痒みを発してゐた。
「こちらは喰はれる方で……こないだも腹の皮をメスで剥がれた」
 原子爆弾症かどうかは不明だつたが、近頃になつて、兄は皮膚がやたらに痒くて困つてゐた。A・B・C・C(原子爆弾影響研究所)で診察して貰ふと、皮膚の一部を切とつて、研究のため、本国へ送られたといふのである。この前見た時にくらべると、兄の顔色は憔悴してゐた。すぐ側に若夫婦がゐるためか、嫂の顔も年寄めいてゐた。夜遅く彼は下駄をつつかけて裏の物置部屋を訪ねてみた。ここにはシベリアから還つた弟夫婦が住居してゐるのだつた。
 翌朝、彼が縁側でぼんやり佇んでゐると、畑のなかを、朝餉前の一働きに、肥桶を担いでゆく兄の姿が見かけられた。今、彼のすぐ眼の前の地面に金盞花や矢車草の花が咲き、それから向の麦畑のなかに一本の梨の木が真白に花をつけてゐた。二年前彼がこの家に立寄つた時には麦畑の向の道路がまる見えだつたが、今は黒い木塀がめぐらされてゐる。表通りに小さな縫工場が建つたので、この家も少し奥まつた感じになつた。が、焼ける前の昔の面影を偲ばすものは、嘗て庭だつたところに残つてゐる築山の岩と、麦畑のなかに見える井戸ぐらゐのものだ。彼はあの惨劇の朝の一瞬のことも、自分がゐた場の状況も、記憶のなかではひどくはつきりしてゐた。火の手が見えだして、そこから逃げだすとき、庭の隅に根元から、ぽつくり折れ曲つて青い枝を手洗鉢に突込んでゐた楓の生々しい姿は、あの家の最後のイメージとして彼の目に残つてゐる。それから壊滅後一ヶ月あまりして、はじめてこの辺にやつて来てみると、一めんの燃えがらのなかに、赤く錆びた金庫が突立つてゐて、その脇に木の立札が立つてゐた。これもまだ刻明に目に残つてゐ
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