小さな虫の群が渦巻いていた。彼は池のほとりに出ると、水を眺めながら、ぐるぐる歩いた。水のなかの浮草は新しい蔓《つる》を張り、そのなかをおたまじゃくしが泳ぎ廻っている。なみなみと満ち溢《あふ》れる明るいものが頻りに感じられるのだった。
 彼が日に一度はそこを通る樹木の多い路は、日毎《ひごと》に春らしく移りかわっていた。枝についた新芽にそそぐ陽の光を見ただけでも、それは酒のように彼を酔わせた。最も微妙な音楽がそこから溢れでるような気持がした。

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とおうい とおうい あまぎりいいす
朝がふたたび みどり色にそまり
ふくらんでゆく蕾《つぼみ》のぐらすに
やさしげな予感がうつってはいないか
少年の胸には 朝ごとに窓 窓がひらかれた
その窓からのぞいている 遠い私よ
[#ここで字下げ終わり]

 これは二年前、彼が広島に行ったとき、何気なくノートに書きしるしておいたものである。郷愁が彼の心を噛《か》んだ。甥の結婚式には間にあわなかったが、こんどのペンクラブ「広島の会」には、どうしても出掛けようと思った。……彼は舟入川口町の姉の家にある一枚の写真を忘れなかった。それは彼が少年
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