》しい生命にくらべれば、窮地に追詰められてはいても、とにかく彼の方が幸《しあわせ》かもしれなかった。天が彼を無用の人間として葬るなら、止《や》むを得ないだろう。ガード近くの叢で見た犬の死骸はときどき彼の脳裏に閃《ひらめ》いた。死ぬ前にもう一度、という言葉が、どうかするとすぐ浮んだ。が、それを否定するように激しく頭を振っていた。しかし、もう一度、彼は郷里に行ってみたかったのだ。かねて彼は作家のMから、こんど行われる、日本ペンクラブの「広島の会」に同行しないかと誘われていた。広島の兄からは、間近に迫った甥《おい》の結婚式に戻って来ないかと問合せの手紙が来ていた。倉敷の妹からも、その途中彼に立寄ってくれと云って来た。だが、旅費のことで彼はまだ何ともはっきり決心がつかなかった。
ある日、彼はすぐ近くにある、井《い》ノ頭《かしら》公園の中へはじめて足を踏込んでみた。ずっと前に妻と一度ここへ遊んだことがあったが、その時の甘い記憶があまりに鮮明だったので、何かここを再び訪《たず》ねるのが躊躇《ちゅうちょ》されていたのだった。薄暗い並木の下の路を這入《はい》って行くと、すぐ眼の前に糠《ぬか》のように
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