と、彼はあの直後、広島の地面のところどころから、突き刺すように感覚を脅《おびや》かしていた異臭をまた想い出すのだった。
 妹のところで昼餉をすますと、彼は電車で楽楽園《らくらくえん》駅まで行き、そこから八幡村の方へ向って、小川に沿うた路を歩いて行った。遙《はる》か向うに、彼の眼によく見憶《みおぼ》えのある山脈があった。その山を眺めて歩いていると、嘗ての、ひだるい、悲しい怒りに似た感情がかえりみられた。……飢餓のなかで、よく彼はとぼとぼとこの路を歩いていたものだ。冷却した宇宙にひとりとり残されたように、彼はこの路で、茫然《ぼうぜん》として夜の星を仰いだものだ。だが、生存の脅威なら、その後もずっと引続いているはずだった。今も、生活の破局に晒《さら》されながら、こうして、この路をひとり歩いている。だが、とにかく、あれから五年は生きて来たのだ。……いつの間にか風が出て空気にしめりがあった。山脈の方の空に薄靄《うすもや》が立ちこめ、空は曇って来た。すぐ近くで、雲雀《ひばり》の囀《さえず》りがきこえた。見ると、薄く曇った中空に、一羽の雲雀は静かに翼を顫《ふる》わせていた。
 彼はその翌朝、白島の方
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