永遠のみどり
原民喜

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)梢《こずえ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一番|懐《なつ》いて

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(例)[#ここから2字下げ]
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 梢《こずえ》をふり仰ぐと、嫩葉《わかば》のふくらみに優しいものがチラつくようだった。樹木が、春さきの樹木の姿が、彼をかすかに慰めていた。吉祥寺《きちじょうじ》の下宿へ移ってからは、人は稀《ま》れにしか訪《たず》ねて来なかった。彼は一週間も十日も殆《ほとん》ど人間と会話をする機会がなかった。外に出て、煙草を買うとき、「タバコを下さい」という。喫茶店に入って、「コーヒー」と註文《ちゅうもん》する。日に言語を発するのは、二ことか三ことであった。だが、そのかわり、声にならない無数の言葉は、絶えず彼のまわりを渦巻いていた。
 水道道路のガード近くの叢《くさむら》に、白い小犬の死骸《しがい》がころがっていた。春さきの陽《ひ》を受けて安らかにのびのびと睡《ねむ》っているような恰好《かっこう》だった。誰にも知られず誰にも顧みられず、あのように静かに死ねるものなら……彼は散歩の途中、いつまでも野晒《のざら》しになっている小さな死骸を、しみじみと眺《なが》めるのだった。これは、彼の記憶に灼《や》きつけられている人間の惨死図とは、まるで違う表情なのだ。

「これからさき、これからさき、あの男はどうして生きて行くのだろう」――彼は年少の友人達にそんな噂《うわさ》をされていた。それは彼が神田の出版屋の一室を立退《たちの》くことになっていて、行先がまだ決まらず、一切が宙に迷っている頃のことだった。雑誌がつぶれ、出版社が倒れ、微力な作家が葬られてゆく情勢に、みんな暗澹《あんたん》とした気分だった。一そのこと靴磨《くつみがき》になろうかしら、と、彼は雑沓《ざっとう》のなかで腰を据えて働いている靴磨の姿を注意して眺めたりした。
「こないだの晩も電車のなかで、FとNと三人で噂したのは、あなたのことです。これからさき、これからさき、どうして一たい生きて行くのでしょうか」近くフランスへ留学することに決定しているEは、彼を顧みて云った。その詠嘆的な心細い口調は、黙って聞いている彼の腸《はらわた》をよじるようであった。彼はとにかく身を置ける一つ
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