の部屋が欲しかった。
 荻窪《おぎくぼ》の知人の世話で借れる約束になっていた部屋を、ある日、彼が確かめに行くと、話は全く喰《く》いちがっていた。茫然《ぼうぜん》として夕ぐれの路《みち》を歩いていると、ふと、その知人と出逢《であ》った。その足で、彼は一緒に吉祥寺の方の別の心あたりを探《さが》してもらった。そこの部屋を借りることに決めたのは、その晩だった。
 騒々しい神田の一角から、吉祥寺の下宿の二階に移ると、彼は久し振りに自分の書斎へ戻ったような気持がした。静かだった。二階の窓からは竹藪《たけやぶ》や木立や家屋が、ゆったりと空間を占めて展望された。ぼんやり机の前に坐っていると、彼はそこが妻と死別した家のつづきのような気持さえした。五日市《いつかいち》街道を歩けば、樹木がしきりに彼の眼についた。楢《なら》、欅《けやき》、木蘭《もくらん》、……あ、これだったのかしら、久しく恋していたものに、めぐりあったように心がふくらむ。……だが、微力な作家の暗澹たる予想は、ここへ移っても少しも変ってはいなかった。二年前、彼が広島の土地を売って得た金が、まだほんの少し手許《てもと》に残っていた。それはこのさき三、四ヵ月生きてゆける計算だった。彼はこの頃また、あの「怪物」の比喩《ひゆ》を頻《しき》りに想い出すのだった。
 非力な戦災者を絶えず窮死に追いつめ、何もかも奪いとってしまおうとする怪物にむかって、彼は広島の焼跡の地所を叩《たた》きつけて逃げたつもりだった。これだけ怪物の口へ与えておけば、あと一年位は生きのびることができる。彼は地所を売って得た金を手にして、その頃、昂然《こうぜん》とこう考えた。すると、怪物はふと、おもむろに追求の手を変えたのだ。彼の原稿が少しずつ売れたり、原子爆弾の体験を書いた作品が、一部の人に認められて、単行本になったりした。彼はどうやら二年間無事に生きのびることができた。だが、怪物は決して追求の手をゆるめたのではなかった。再びその貌《かお》が間近に現れたとき、彼はもう相手に叩き与える何ものも無く、今は逃亡手段も殆ど見出《みいだ》せない破滅に陥っていた。
「君はもう死んだっていいじゃないか。何をおずおずするのだ」
 特殊潜水艦の搭乗員《とうじょういん》だった若い友人は酔っぱらうと彼にむかって、こんなことを云った。虚《むな》しく屠《ほふ》られてしまった無数の哀《かな
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