靴のホツクを嵌めてくれたが、それが済むと彼女は上気した顔で立上つた。
「さあ、お魚を釣りに行きませう」と、婦人は空二の手を牽いて、橋のところまで来た。
「あなたはここで待つてゐらつしやい。今に大きなお魚を釣つてあげますよ」と、彼女は空二をひとり橋の上に残して、谷川の方へ降る細い路を降りて行つた。空二は橋の上から谷川の方を見下してゐると、やがて、渓流に臨んだ岩の上に彼女の姿は現れた。彼女は身軽さうに岩の端に立停まり、釣竿を降した。今、糸の垂れてゐる処から少し離れて、水がキラキラ輝いてゐる。彼女はそれを時折、眩しさうにしてゐたが、釣竿のさきに心は奪はれてゐるやうであつた。
ふと、空二は今のうちに何処かへ行つてしまはうかと思つた。さうすれば、あの婦人と自分はもう何のかかはりもなくなつてしまひさうだつた。しかし、何ものかが彼をいま引留めてゐるやうでもあつた。空二はそれに抗ふやうに五六歩、歩いてみた。
「空二さん、空二さん、釣れましたよ、そら」
何時の間にか婦人は空二の側に走り寄つてゐた。息を弾ませながら、彼女は糸のさきに跳ねる魚を空二の鼻さきに持つて来る。
「そら、ねえ、大きなお魚でせう」
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