つしやいませ、そら」
婦人の促す声で、空二はちゆんと鼻に力を入れた。と、彼女はすつぼり水洟を拭きとつた。暫く空二は感嘆に似た気持でぽかんとしてゐた。もう自分は完全にこの婦人に征服されてゐるらしかつた。しかし彼女は空二の感嘆にかかりあつてはゐなかつた。
彼女は乳母車の脇に手を入れて何か探してゐたが、間もなく子供靴と釣竿を取出した。
「さあ、ここで少し遊んで行きませう。お靴を穿かしてあげますから、空二さんも歩くのですよ」
空二は素直に頷いた。すると婦人は両手を伸ばして、空二を乳母車から抱へ上げようとした。彼は少し躊躇した。
「おや、どうしたのです」婦人は眼を円くして空二の顔を覗き込んだ。
「空二さんはお怜悧さんでせう」
婦人はまた両手を伸ばして空二を抱き上げようとする。たうとう空二は気まり悪げに乳母車の中に立上つた。すると彼女は空二を両腕に抱き上げ、「おお、空二さんは随分重たいこと」と、呟きながら道端の芝生のところへ運んで行つた。空二は彼女に運ばれてゆく間、ぢつと苦痛と快感の交はる感覚を堪へてゐた。
芝生の処へ空二を降ろすと、婦人は釣竿と靴を持つて来た。それから彼の足許に屈んで、
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