が乱れてゐるのですね」
 さう云ふ婦人の声を空二はかすかに聞いた。そして、何ともいへない郷愁をそそる甘い香りがまぢかに感じられた。不思議な時間が流れ去つたやうに思へた。
 空二はパツと眼を開いて、あたりを見廻した。婦人の顔の向には樅の木が見え、その向には青空が覗いてゐる。
「そら、もう元気をお出しなさい。もう怕いことなんかないでせう」
 空二は頷いた。それから素直に起上ると、あたりの草原を珍しさうに眺めた。菫、蒲公英、紫雲英、いろんな花が咲いてゐた。
「あ、空二さんに花束を拵へてあげませうね」
 婦人はあちこちと飛び歩いて花を摘んだ。忽ち、小さな花束が空二の掌に渡された。空二は渡された花束を大切さうに持つたまま、虚脱したやうな顔つきであつた。
「ここへお坐んなさい、お話をしてあげませう」
 芝生の傾斜の窪んだ褥に、空二と婦人は脚を投げ出して坐つた。

「むかし、むかし、あるところに、空二さんのやうに怜悧なお方がありました。その人の背の高さは、ちやうど空二さん位ありました。その人の顔はそれも空二さんによく似てをりました。それに、その人が生れた家も丁度空二さんのお家ぐらゐでした。………」

前へ 次へ
全16ページ中11ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
原 民喜 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング