雲雀病院
原民喜
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【テキスト中に現れる記号について】
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「纏のまだれに代えてがんだれ」、421−8]
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銀の鈴を振りながら、二頭の小山羊は花やリボンで飾られてゐる大きな乳母車を牽いて行つた。その後には、青い服を※[#「纏のまだれに代えてがんだれ」、421−8]つた鳩のやうな婦人がもの静かに従いて歩いた。むかうの峰には乳白色の靄がかかつてゐたが、こちらの空は真青に潤んでゐた。澄んだ空気の中に草の芽や花の蕾の匂ひが漾つて、しげみの中では鶯が啼いてゐる。
車のバネの緩い動揺や、鈴の音に、すやすやと睡つてゐた空二は、ふと眼を見開いた。それから、車のすぐ側に見識らぬ婦人がゐるのを、ぼんやり見てゐた。が、やがて再び目蓋を閉ぢてしまつた。しばらくすると、空二は唇をむちやむちや動かしながら両手を伸ばした。そして今度はほんとうに目が覚めたらしかつた。彼は何時ものやうに煙草を吸はうと思つて、無意識にあたりを手探つた。が、彼の指さきに掴まつたものはキヤラメルの函であつた。彼はつまらなさうにその函を放つた。それから再び狭い車内を探してゐると、漫画の本が出て来た。彼はそれを膝の上に展げてちよつと見入つてゐたが、すぐに、にやにや笑ひだした。それから、ふと見識らぬ婦人が側にゐるのを思ひ出した。すると彼は妙に気恥しくなつた。空二は漫画の本を横に隠して、顔を婦人の方へ向けた。空二の眼に好色的な輝きが漲つて来たが、婦人は清浄無垢の表情をしてゐる。
いささか勝手が違ふので空二は不審げにその女を視凝めた。視てゐるうちに彼の心は和んで、婦人の善良な魂がほほゑみかけて来るやうに思へた。空二は苦々しげに眉を顰めた。すると、今迄車の柄に手を掛けながら心もすずろに眩しさうな顔つきで歩いてゐた婦人が、はじめて乳母車の中の空二に眼を注いだ。
「お目ざめになりました、空二さん」
婦人のその声は幼児を恍惚とさすやうな響をもつてゐた。空二はかすかに聞き憶えのある声のやうにおもへたが、誰だつたのか思ひ出せなかつた。そして、今この女から嬰児をあやすやうな態度をとられたことが、少し気に喰はなかつた。
空二は露骨に不快な表情を作るため唇をゆがめようとした。と、歪みかけた唇から、たらたらとよだれが零れた。はつとして襟許を視ると、彼の首にはちやんとビロウドの縁のついた涎掛がつけてあつた。そればかりではなかつた。彼は緑と黄の毛糸の子供服を着せられてゐるのに気附いた。すると、空二は今にも背髄の方から一種の痙攣が始まりさうな気がした。彼はその車から飛上つて、滅茶苦茶に暴れ出したい衝動が蠢いた。彼の眼は青く戦いた。しかし、彼の体のうちに始まりかけた痙攣はピクリと彼の指さきを戦かせただけで、やがて曖昧に消えて行つた。彼はぐつたりとクツシヨンの方へ頭を埋めた。
「まだお眼がよく覚められないのですね」と、婦人は面白さうに彼の顔を見守つて笑つた。
「ああ」と、空二は奇妙な声を出して唸つた。いつもの自分の声とはまるで違つてゐるやうであつた。彼は指で眼を小擦つて、もう一度あたりを改めて見廻した。乳母車の幌からは幾すぢものリボンが吊されて、それに造花や薬玉が結んであるのが、ぶらぶら揺れてゐる。それを見てゐると、何だかまた腹立たしくなつて来た。よくは呑込めなかつたが、どうも自分をこんな目に逢はせてゐるのは、今彼を運んでゆく女の所為のやうに思へた。空二は婦人にむかつて抗議しようと頭のなかであせつた。が、いつもなら、すぐに浮んで来る筈の言葉が今はさつぱり思ひ浮ばなかつた。
「煙草をくれませんか」彼はまるで別のことを喋つてしまつた。
「煙草、そんなものをどうなさるのです」
「無かつたのかなあ、つまらないなあ」と、彼は残念さうに自分の頬をさすつた。
「煙草はいけません、それに火があぶなう御座いますよ」
婦人は親切げにつけ加へた。彼はふと苦笑したくなつた。ところが、どういふものか突然、大きな声をあげて叫び出した。
「煙草をおくれ、煙草をおくれ」
さうして、空二はだだをこねる子供のやうに頭を左右に振つてゐた。
「いいえ、煙草はいけません、そのかはりこれを差上げませう」
婦人はさつき空二が放つたキヤラメルの函を取上げて、その中から一つキヤラメルを摘み、空二の唇許へ持つて来た。空二は口を頑に噤んで頤を左右に振つた。
「ねえ、空二さんは賢いお方でせう、そんな意地張りをなさるものではありません。ほうら、この紙の中からこんなものが出て来ましたよ。これをあなたの口の中につるつと入れてみませう」
空二は何時の間にかおとなしくなつて、口の中にキヤラメルを入れられてゐる自分を見
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