出した。それから暫くすると、彼は自分の舌を怪しむやうに眼を瞠つてゐたが、やがてうまさうに夢中で口を動かしだした。婦人は幸福さうな微笑を湛へてぢつと彼を見守つた。その顔を空二はぽかんと見上げてゐた。
「そら、あなたはすつかり素直になられましたわね……」と、婦人は嬉しげに空二に話しかける。
しかし、空二はやはり解せない気持であつた。自分がこの女から奇妙な取扱を受けながら、それを拒絶する力がもう無くなつてゐるのを、纔かに訝るばかりであつた。さきほどから背筋の方をまた痙攣の兆候が緩く流れてゐるのが感じられた。彼は水底に没してゆく者のやうな眼つきをした。痙攣は今度もわづかに眉を戦かせただけで終つた。それが終ると、空二はぞつとしたやうな顔つきで溜息をついた。
「おや、そんな淋しさうなお顔なさつて、どうしたのです」
婦人は心配さうに空二を視つめた。さうされると彼は妙に悲しくなつて、喘ぐやうに訴へた。
「水をくれ、水を」
「まあ、咽喉が渇いたのですかさうですか」
婦人は乳母車の行手を見やつてゐたが、はたと晴れやかな顔をした。
「そら、もう少し行くと向に谷川が流れてをります。あそこまで行つたら水を飲みませうね」
しかし空二は一そう顔を曇らせた。
「まあ、お可哀相に、そんなに咽喉が渇いてゐたのですか、もう少しの間ですから辛抱なさいませ。そのかはりあの谷川のところへ着いたら、空二さんにお魚を釣つてあげますよ」
空二はあーんと泣き出した。大粒の涙がぼろぼろと鼻を伝はつて、涎掛に落ちて来る。あーん、あーんと、泣声の絶え間には、ふと、彼は自分の泣声を吟味するやうに聞いてゐた。しかし、これは女を瞞すための気どつた泣き方とは違つてゐるやうであつた。空二は泣きながら得態の知れぬ滑稽感が頭を持上げさうになるので、一層泣き募つた。これは結局、この女に甘えかかつた訳なのかしら、と彼はぼんやり考へだした。さうすると、いつの間にか空二は泣き歇んでゐた。号び泣きの余韻がまだ時々、身裡に脈を打つてゐたやうだが、気分はすつかり落着いて来た。一そのことこの女の思ひ通りになつてやらうかしら、と彼は自分に余裕を感じて考へた。
ふと、婦人の方を竊視ると、彼女は少し慍つたやうな顔つきで遠くを視つめてゐる。空二は急に萎れたやうな気持で俯向いた。それからまた婦人の方を見上げると、彼女は空二の視線を態と反してゐるやうに思へた。空二はいつまでも許しを乞ふ子供のやうにぢつと彼女を視つめてゐた。そのうちに、ちらつと彼女は空二の視線と逢つた、と思ふと彼女はにつこり笑つた。
「空二さんはお怜悧さんね」と婦人は優しく呟いた。
「少しのことが辛抱出来ないお方は駄目で御座いますよ。さあ、もう橋のところへ着きましたから、ここで暫く休みませう」
婦人は乳母車の先頭の方へ廻つて、二頭の小山羊を楓の根元に繋いだ。それから、彼女は渓流の方へ降りて行つた。
暫くすると彼女は掌に緑色のコツプと濡れたハンカチを持つて、乳母車の処へ戻つて来た。木の葉で拵へたコツプには綺麗な水がゆらいでゐる。彼女は黙つて空二の唇許へコツプを持つて行つた。空二はごくごくと咽喉を鳴らしながら飲んだ。婦人は満足さうに空二を眺めてゐたが、飲み了るとコツプを受取り、今度はハンケチを固く絞つた。
「さあ、お顔を綺麗にしませう」
婦人は空二の顔にハンケチをあてた。空二は顔を左右に振つてゐたが、婦人はすつかり彼の顔を拭き終つて、今、鼻腔の処へハンカチをあてがつた。
「さあ、ちゆん、とおつしやいませ」
空二は情なささうな顔で、婦人を見てゐた。
「ちゆん、とおつしやいませ、そら」
婦人の促す声で、空二はちゆんと鼻に力を入れた。と、彼女はすつぼり水洟を拭きとつた。暫く空二は感嘆に似た気持でぽかんとしてゐた。もう自分は完全にこの婦人に征服されてゐるらしかつた。しかし彼女は空二の感嘆にかかりあつてはゐなかつた。
彼女は乳母車の脇に手を入れて何か探してゐたが、間もなく子供靴と釣竿を取出した。
「さあ、ここで少し遊んで行きませう。お靴を穿かしてあげますから、空二さんも歩くのですよ」
空二は素直に頷いた。すると婦人は両手を伸ばして、空二を乳母車から抱へ上げようとした。彼は少し躊躇した。
「おや、どうしたのです」婦人は眼を円くして空二の顔を覗き込んだ。
「空二さんはお怜悧さんでせう」
婦人はまた両手を伸ばして空二を抱き上げようとする。たうとう空二は気まり悪げに乳母車の中に立上つた。すると彼女は空二を両腕に抱き上げ、「おお、空二さんは随分重たいこと」と、呟きながら道端の芝生のところへ運んで行つた。空二は彼女に運ばれてゆく間、ぢつと苦痛と快感の交はる感覚を堪へてゐた。
芝生の処へ空二を降ろすと、婦人は釣竿と靴を持つて来た。それから彼の足許に屈んで、
前へ
次へ
全4ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
原 民喜 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング