靴のホツクを嵌めてくれたが、それが済むと彼女は上気した顔で立上つた。
「さあ、お魚を釣りに行きませう」と、婦人は空二の手を牽いて、橋のところまで来た。
「あなたはここで待つてゐらつしやい。今に大きなお魚を釣つてあげますよ」と、彼女は空二をひとり橋の上に残して、谷川の方へ降る細い路を降りて行つた。空二は橋の上から谷川の方を見下してゐると、やがて、渓流に臨んだ岩の上に彼女の姿は現れた。彼女は身軽さうに岩の端に立停まり、釣竿を降した。今、糸の垂れてゐる処から少し離れて、水がキラキラ輝いてゐる。彼女はそれを時折、眩しさうにしてゐたが、釣竿のさきに心は奪はれてゐるやうであつた。
ふと、空二は今のうちに何処かへ行つてしまはうかと思つた。さうすれば、あの婦人と自分はもう何のかかはりもなくなつてしまひさうだつた。しかし、何ものかが彼をいま引留めてゐるやうでもあつた。空二はそれに抗ふやうに五六歩、歩いてみた。
「空二さん、空二さん、釣れましたよ、そら」
何時の間にか婦人は空二の側に走り寄つてゐた。息を弾ませながら、彼女は糸のさきに跳ねる魚を空二の鼻さきに持つて来る。
「そら、ねえ、大きなお魚でせう」彼女は鉤を外して、掌に掴んだ魚を空二の方に差出した。
空二がおそるおそる掌を出すと、青い大きな魚は空二の掌に触つた瞬間ピリリと動いた。空二は吃驚して手を引込めた。魚は地上に墜ちて、ピンピン跳ね出した。眼も、腹も、砂まみれになつて、跳ねてゐる魚が、突然、空二を異常な恐怖に突落した。うわあ、と泣きながら、彼はガタガタ戦きだした。
「ああ、お魚が怕かつたのですか、それではもうこれは逃がしてやりませうね」
婦人は砂まみれの魚を水の中に放つた。しかし、空二はますます烈しく顫へて来た。「怕い、怕い」と、夢中で婦人に縋りついた。婦人は空二を抱き上げて、再び芝生のところへ運んで行つた。空二の顔は死人のやうに真白であつた。
「おお、可哀相に、暫くここでお休みなさい」と、婦人は膝の上に空二の頭を載せてやり、静かに頭髪を撫でてゐた。
「見える! 見える」と、空二はなほも口走つた。
「いいえ、もう見えは致しません。そら、眼を閉ぢて、静かに息をなさいませ。何にも、なんにも見えはしないでせう」
婦人の膝の温もりが、空二の頬に伝はつて来るに随つて、彼は次第に気が鎮まつて行つた。
「お可哀相に、あなたは大分神経
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