思へた。空二はいつまでも許しを乞ふ子供のやうにぢつと彼女を視つめてゐた。そのうちに、ちらつと彼女は空二の視線と逢つた、と思ふと彼女はにつこり笑つた。
「空二さんはお怜悧さんね」と婦人は優しく呟いた。
「少しのことが辛抱出来ないお方は駄目で御座いますよ。さあ、もう橋のところへ着きましたから、ここで暫く休みませう」
婦人は乳母車の先頭の方へ廻つて、二頭の小山羊を楓の根元に繋いだ。それから、彼女は渓流の方へ降りて行つた。
暫くすると彼女は掌に緑色のコツプと濡れたハンカチを持つて、乳母車の処へ戻つて来た。木の葉で拵へたコツプには綺麗な水がゆらいでゐる。彼女は黙つて空二の唇許へコツプを持つて行つた。空二はごくごくと咽喉を鳴らしながら飲んだ。婦人は満足さうに空二を眺めてゐたが、飲み了るとコツプを受取り、今度はハンケチを固く絞つた。
「さあ、お顔を綺麗にしませう」
婦人は空二の顔にハンケチをあてた。空二は顔を左右に振つてゐたが、婦人はすつかり彼の顔を拭き終つて、今、鼻腔の処へハンカチをあてがつた。
「さあ、ちゆん、とおつしやいませ」
空二は情なささうな顔で、婦人を見てゐた。
「ちゆん、とおつしやいませ、そら」
婦人の促す声で、空二はちゆんと鼻に力を入れた。と、彼女はすつぼり水洟を拭きとつた。暫く空二は感嘆に似た気持でぽかんとしてゐた。もう自分は完全にこの婦人に征服されてゐるらしかつた。しかし彼女は空二の感嘆にかかりあつてはゐなかつた。
彼女は乳母車の脇に手を入れて何か探してゐたが、間もなく子供靴と釣竿を取出した。
「さあ、ここで少し遊んで行きませう。お靴を穿かしてあげますから、空二さんも歩くのですよ」
空二は素直に頷いた。すると婦人は両手を伸ばして、空二を乳母車から抱へ上げようとした。彼は少し躊躇した。
「おや、どうしたのです」婦人は眼を円くして空二の顔を覗き込んだ。
「空二さんはお怜悧さんでせう」
婦人はまた両手を伸ばして空二を抱き上げようとする。たうとう空二は気まり悪げに乳母車の中に立上つた。すると彼女は空二を両腕に抱き上げ、「おお、空二さんは随分重たいこと」と、呟きながら道端の芝生のところへ運んで行つた。空二は彼女に運ばれてゆく間、ぢつと苦痛と快感の交はる感覚を堪へてゐた。
芝生の処へ空二を降ろすと、婦人は釣竿と靴を持つて来た。それから彼の足許に屈んで、
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