が乱れてゐるのですね」
さう云ふ婦人の声を空二はかすかに聞いた。そして、何ともいへない郷愁をそそる甘い香りがまぢかに感じられた。不思議な時間が流れ去つたやうに思へた。
空二はパツと眼を開いて、あたりを見廻した。婦人の顔の向には樅の木が見え、その向には青空が覗いてゐる。
「そら、もう元気をお出しなさい。もう怕いことなんかないでせう」
空二は頷いた。それから素直に起上ると、あたりの草原を珍しさうに眺めた。菫、蒲公英、紫雲英、いろんな花が咲いてゐた。
「あ、空二さんに花束を拵へてあげませうね」
婦人はあちこちと飛び歩いて花を摘んだ。忽ち、小さな花束が空二の掌に渡された。空二は渡された花束を大切さうに持つたまま、虚脱したやうな顔つきであつた。
「ここへお坐んなさい、お話をしてあげませう」
芝生の傾斜の窪んだ褥に、空二と婦人は脚を投げ出して坐つた。
「むかし、むかし、あるところに、空二さんのやうに怜悧なお方がありました。その人の背の高さは、ちやうど空二さん位ありました。その人の顔はそれも空二さんによく似てをりました。それに、その人が生れた家も丁度空二さんのお家ぐらゐでした。………」
やはらかい口調で婦人が喋り出すと、空二は婦人の声に連れられて、ふんわりした雲の中に這入つて行くやうな気持がした。彼の眼はとろんとして、上の※[#「目+検のつくり」、第4水準2−82−3]と下の※[#「目+検のつくり」、第4水準2−82−3]が今にも重なりさうになる。
「………その人はだんだん生長してゆきましたが、ちよつとしたことが、すぐに気に触る性質でした。そのために、普通の人なら平気なことも、その人にとつては堪へられないことがありました。そしてその人は心のあちこちに、沢山の負傷をして参りました。その人は自分で自分に打克つ力が無かつたために、その疵はなかなか治りませんでした。そのうへ何か立派なことをしようと思ひたつても疵のことがすぐ気にかかりました。すると疵の方でその人を誘惑してすぐに怠けさせてしまひます。そんな風に、その人は意志の弱いところがありましたが、また妙に意地は強いのでした。………」
うつとりと眼を細めてゐた空二は急にハツとしたやうに婦人を視つめた。相変らず婦人は子守唄を歌ふやうな調子で喋りつづけてゐるのだつた。
「………とその人のお家の庭には春になると、山吹や藤の花が咲
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