壊滅の序曲
原民喜

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)羽撃《はばたき》を、

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)※[#濁点付き片仮名「ヰ」、1−7−83]ンゲルマンの
−−

 朝から粉雪が降つてゐた。その街に泊つた旅人は何となしに粉雪の風情に誘はれて、川の方へ歩いて行つてみた。本川橋は宿からすぐ近くにあつた。本川橋といふ名も彼には久し振りに思ひ出したのである。むかし彼が中学生だつた頃の記憶がまだそこに残つてゐさうだつた。粉雪は彼の繊細な視覚を更に鋭くしてゐた。橋の中ほどに佇んで、岸を見てゐると、ふと、『本川饅頭』といふ古びた看板があるのを見つけた。突然、彼は不思議なほど静かな昔の風景のなかに浸つてゐるやうな錯覚を覚えた。が、つづいて、ぶるぶると戦慄が湧くのをどうすることもできなかつた。この粉雪につつまれた一瞬の静けさのなかに、最も痛ましい終末の日の姿が閃いたのである。……彼はそのことを手紙に誌して、その街に棲んでゐる友人に送つた。さうして、そこの街を立去り、遠方へ旅立つた。

 ……その手紙を受取つた男は、二階でぼんやり窓の外を眺めてゐた。すぐ眼の前に隣家の小さな土蔵が見え、屋根近くその白壁の一ところが剥脱してゐて粗い赭土を露出させた寂しい眺めが、――さういふ些細な部分だけが、昔ながらの面影を湛へてゐるやうであつた。……彼も近頃この街へ棲むやうになつたのだが、久しいあひだ郷里を離れてゐた男には、すべてが今は縁なき衆生のやうであつた。少年の日の彼の夢想を育んだ山や河はどうなつたのだらうか、――彼は足の赴くままに郷里の景色を見て歩いた。残雪をいただいた中国山脈や、その下を流れる川は、ぎごちなく武装した、ざわつく街のために稀薄な印象をとどめてゐた。巷では、行逢ふ人から、木で鼻を括るやうな扱ひを受けた。殺気立つた中に、何ともいへぬ間の抜けたものも感じられる、奇怪な世界であつた。
 ……いつのまにか彼は友人の手紙にある戦慄について考へめぐらしてゐた。想像を絶した地獄変、しかも、それは一瞬にして捲き起るやうにおもへた。さうすると、彼はやがてこの街とともに滅び失せてしまふのだらうか、それとも、この生れ故郷の末期の姿を見とどけるために彼は立戻つて来たのであらうか。賭にも等しい運命であつた。どうかすると、その街が何ごともなく無疵のまま残されること、――そんな虫のいい、愚かしいことも、やはり考へ浮かぶのではあつた。

 黒羅紗の立派なジヤンパーを腰のところで締め、綺麗に剃刀のあたつた頤を光らせながら、清二は忙しげに正三の部屋の入口に立ちはだかつた。
「おい、何とかせよ」
 さういふ語気にくらべて、清二の眼の色は弱かつた。彼は正三が手紙を書きかけてゐる机の傍に坐り込むと、側にあつた※[#濁点付き片仮名「ヰ」、1−7−83]ンゲルマンの『希臘芸術模倣論』の挿絵をパラパラとめくつた。正三はペンを擱くと、黙つて兄の仕草を眺めてゐた。若いとき一時、美術史に熱中したことのあるこの兄は、今でもさういふものには惹きつけられるのであらうか……。だが、清二はすぐにパタンとその本を閉ぢてしまつた。
 それはさきほどの「何とかせよ」といふ語気のつづきのやうにも正三にはおもへた。長兄のところへ舞戻つて来てからもう一ヶ月以上になるのに、彼は何の職に就くでもなし、ただ朝寝と夜更かしをつづけてゐた。
 彼にくらべると、この次兄は毎日を規律と緊張のうちに送つてゐるのであつた。製作所が退けてからも遅くまで、事務室の方に灯がついてゐることがある。そこの露次を通りかかつた正三が事務室の方へ立寄つてみると、清二はひとり机に凭つて、せつせと書きものをしてゐた。工員に渡す月給袋の捺印とか、動員署へ提出する書類とか、さういふ事務的な仕事に満足してゐることは、彼が書く特徴ある筆蹟にも窺はれた。判で押したやうな型に嵌まつた綺麗な文字で、いろんな掲示が事務室の壁に張りつけてある。……正三がぼんやりその文字に見とれてゐると、清二はくるりと廻転椅子を消えのこつた煉炭ストーブの方へ向けながら、「タバコやらうか」と、机の引出から古びた鵬翼の袋を取出し、それから棚の上のラジオにスイツチを入れるのだつた。ラジオは硫黄島の急を告げてゐた。話はとかく戦争の見とほしになるのであつた。清二はぽつんと懐疑的なことを口にしたし、正三ははつきり絶望的な言葉を吐いた。……夜間、警報が出ると、清二は大概、事務室へ駈けつけて来た。警報が出てから五分もたたない頃、表の呼鈴が烈しく鳴る。寝呆け顔の正三が露次の方から、内側の扉を開けると、表には若い女が二人佇んでゐる。監視当番の女工員であつた。「今晩は」と一人が正三の方へ声をかける。正三は直かに胸を衝かれ、襟を正さねばならぬ気持がするのであつた。それから彼が事務室の闇を手探りながら、ラジオに灯りを入れた頃、厚い防空頭巾を被つた清二がそはそはやつて来る。「誰かゐるのか」と清二は灯の方へ声をかけ、椅子に腰を下ろすのだが、すぐまた立上つて工場の方を見て廻つた。さうして、警報が出た翌朝も、清二は早くから自転車で出勤した。奥の二階でひとり朝寝をしてゐる正三のところへ、「いつまで寝てゐるのだ」と警告しに来るのも彼であつた。
 今も正三はこの兄の忙しげな容子にいつもの警告を感じるのであつたが、清二は『希臘芸術模倣論』を元の位置に置くと、ふとかう訊ねた。
「兄貴はどこへ行つた」
「けさ電話かかつて、高須の方へ出掛けたらしい」
 すると、清二は微かに眼に笑みを浮べながら、ごろりと横になり、「またか、困つたなあ」と軽く呟くのであつた。それは正三の口から順一の行動について、もつといろんなことを喋りだすのを待つてゐるやうであつた。だが、正三には長兄と嫂とのこの頃の経緯は、どうもはつきり筋道が立たなかつたし、それに、順一はこのことについては必要以外のことは決して喋らないのであつた。

 正三が本家へ戻つて来たその日から、彼はそこの家に漾ふ空気の異状さに感づいた。それは電燈に被せた黒い布や、いたるところに張りめぐらした暗幕のせゐではなく、また、妻を喪つて仕方なくこの不自由な時節に舞戻つて来た弟を歓迎しない素振ばかりでもなく、もつと、何かやりきれないものが、その家には潜んでゐた。順一の顔には時々、嶮しい陰翳が抉られてゐたし、嫂の高子の顔は思ひあまつて茫と疼くやうなものが感じられた。三菱へ学徒動員で通勤してゐる二人の中学生の甥も、妙に黙り込んで陰鬱な顔つきであつた。
 ……ある日、嫂の高子がその家から姿を晦ました。すると順一のひとり忙しげな外出が始まり、家の切廻しは、近所に棲んでゐる寡婦の妹に任せられた。この康子は夜遅くまで二階の部屋にやつて来ては、のべつまくなしに、いろんなことを喋つた。嫂の失踪はこんどが初めてではなく、もう二回も康子が家の留守をあづかつてゐることを正三は知つた。この三十すぎの小姑の口から描写される家の空気は、いろんな臆測と歪曲に満ちてゐたが、それだけに正三の頭脳に熱つぽくこびりつくものがあつた。
 ……暗幕を張つた奥座敷に、飛きり贅沢な緞子の炬燵蒲団が、スタンドの光に射られて紅く燃えてゐる、――その側に、気の抜けたやうな順一の姿が見かけられることがあつた。その光景は正三に何かやりきれないものをつたへた。だが、翌朝になると順一は作業服を着込んで、せつせと疎開の荷造を始めてゐる、その顔は一図に傲岸な殺気を含んでゐた。……それから時々、市外電話がかかつて来ると、長兄は忙しげに出掛けて行く。高須には誰か調停者がゐるらしかつた――が、それ以上のことは正三にはわからなかつた。
 ……妹はこの数年間の嫂の変貌振りを、――それは戦争のためあらゆる困苦を強ひられて来た自分と比較して、――戦争によつて栄耀栄華をほしいままにして来たものの姿として、そしてこの訳のわからない今度の失踪も、更年期の生理的現象だらうかと、何かもの恐ろしげに語るのであつた。……だらだらと妹が喋つてゐると、清二がやつて来て黙つて聴いてゐることがあつた。「要するに、勤労精神がないのだ。少しは工員のことも考へてくれたらいいのに」と次兄はぽつんと口を挿む。「まあ、立派な有閑マダムでせう」と妹も頷く。「だが、この戦争の虚偽が、今ではすべての人間の精神を破壊してゆくのではないかしら」と、正三が云ひだすと「ふん、そんなまはりくどいことではない、だんだん栄耀の種が尽きてゆくので、嫂はむかつ腹たてだしたのだ」と清二はわらふ。
 高子は家を飛出して、一週間あまりすると、けろりと家に帰つて来た。だが、何かまだ割りきれないものがあるらしく、四五日すると、また行衛を晦ました。すると、また順一の追求が始まつた。「今度は長いぞ」と順一は昂然として云ひ放つた。「愚図愚図すれば、皆から馬鹿にされる。四十にもなつて、碌に人に挨拶もできない奴ばかりぢやないか」と弟達にあてこすることもあつた。……正三は二人の兄の性格のなかに彼と同じものを見出すことがあつて、時々、厭な気持がした。森製作所の指導員をしている康子は、兄たちの世間に対する態度の拙劣さを指摘するのだつた。その拙劣さは正三にもあつた。……しかし、長い間、離れてゐるうちに、何と兄たちはひどく変つて行つたことだらう。それでは正三自身はちつとも変らなかつたのだらうか。……否。みんなが、みんな、日毎に迫る危機に晒されて、まだまだ変らうとしてゐるし、変つてゆくに違ひない。ぎりぎりのところをみとどけなければならぬ。――これが、その頃の正三に自然に浮んで来るテーマであつた。

「来たぞ」といつて、清二は正三の眼の前に一枚の紙片を差出した。点呼令状であつた。正三はじつとその紙に眼をおとし、印刷の隅々まで読みかへした。
「五月か」と彼はさう呟いた。正三は昨年、国民兵の教育召集を受けた時ほどにはもう驚かなかつた。が、しかし清二は彼の顔に漾ふ苦悶の表情をみてとつて、「なあに、どつちみち、今となつては、内地勤務だ、大したことないさ」と軽くうそぶいた。……五月といへば、二ヶ月さきのことであつたが、それまでこの戦争が続くだらうか、と正三は窃かに考へ耽つた。
 何といふことなしに正三は、ぶらぶらと街をよく散歩した。妹の息子の乾一を連れて、久振りに泉邸へも行つてみた。昔、彼が幼なかつたとき彼もよく誰かに連れられて訪れたことのある庭園だが、今も淡い早春の陽ざしのなかに樹木や水はひつそりとしてゐた。絶好の避難場所、さういふ念想がすぐ閃めくのであつた。……映画館は昼間から満員だつたし、盛場の食堂はいつも賑はつてゐた。正三は見覚えのある小路を選んでは歩いてみたが、どこにももう子供心に印されてゐた懐しいものは見出せなかつた。下士官に引率された兵士の一隊が悲壮な歌をうたひながら、突然、四つ角から現れる。頭髪に白鉢巻をした女子勤労学徒の一隊が、兵隊のやうな歩調でやつて来るのともすれちがつた。
 ……橋の上に佇んで、川上の方を眺めると、正三の名称を知らない山々があつたし、街のはての瀬戸内海の方角には島山が、建物の蔭から顔を覗けた。この街を包囲してゐるそれらの山々に、正三はかすかに何かよびかけたいものを感じはじめた。……ある夕方、彼はふと町角を通りすぎる二人の若い女に眼が惹きつけられた。健康さうな肢体と、豊かなパーマネントの姿は、明日の新しいタイプかとちよつと正三の好奇心をそそつた。彼は彼女たちの後を追ひ、その会話を漏れ聴かうと試みた。
「お芋がありさへすりやあ、ええわね」
 間ののびた、げつそりするやうな、声であつた。

 森製作所では六十名ばかりの女子学徒が、縫工場の方へやつて来ることになつてゐた。学徒受入式の準備で、清二は張切つてゐたし、その日が近づくにつれて、今迄ぶらぶらしてゐた正三も自然、事務室の方へ姿を現はし、雑用を手伝はされた。新しい作業服を着て、ガラガラと下駄をひきずりながら、土蔵の方から椅子を運んでくる正三の様子は
次へ
全6ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
原 民喜 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング