ないのであつた。
正三が本家へ戻つて来たその日から、彼はそこの家に漾ふ空気の異状さに感づいた。それは電燈に被せた黒い布や、いたるところに張りめぐらした暗幕のせゐではなく、また、妻を喪つて仕方なくこの不自由な時節に舞戻つて来た弟を歓迎しない素振ばかりでもなく、もつと、何かやりきれないものが、その家には潜んでゐた。順一の顔には時々、嶮しい陰翳が抉られてゐたし、嫂の高子の顔は思ひあまつて茫と疼くやうなものが感じられた。三菱へ学徒動員で通勤してゐる二人の中学生の甥も、妙に黙り込んで陰鬱な顔つきであつた。
……ある日、嫂の高子がその家から姿を晦ました。すると順一のひとり忙しげな外出が始まり、家の切廻しは、近所に棲んでゐる寡婦の妹に任せられた。この康子は夜遅くまで二階の部屋にやつて来ては、のべつまくなしに、いろんなことを喋つた。嫂の失踪はこんどが初めてではなく、もう二回も康子が家の留守をあづかつてゐることを正三は知つた。この三十すぎの小姑の口から描写される家の空気は、いろんな臆測と歪曲に満ちてゐたが、それだけに正三の頭脳に熱つぽくこびりつくものがあつた。
……暗幕を張つた奥座敷に、飛きり贅
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