が正三の方へ声をかける。正三は直かに胸を衝かれ、襟を正さねばならぬ気持がするのであつた。それから彼が事務室の闇を手探りながら、ラジオに灯りを入れた頃、厚い防空頭巾を被つた清二がそはそはやつて来る。「誰かゐるのか」と清二は灯の方へ声をかけ、椅子に腰を下ろすのだが、すぐまた立上つて工場の方を見て廻つた。さうして、警報が出た翌朝も、清二は早くから自転車で出勤した。奥の二階でひとり朝寝をしてゐる正三のところへ、「いつまで寝てゐるのだ」と警告しに来るのも彼であつた。
 今も正三はこの兄の忙しげな容子にいつもの警告を感じるのであつたが、清二は『希臘芸術模倣論』を元の位置に置くと、ふとかう訊ねた。
「兄貴はどこへ行つた」
「けさ電話かかつて、高須の方へ出掛けたらしい」
 すると、清二は微かに眼に笑みを浮べながら、ごろりと横になり、「またか、困つたなあ」と軽く呟くのであつた。それは正三の口から順一の行動について、もつといろんなことを喋りだすのを待つてゐるやうであつた。だが、正三には長兄と嫂とのこの頃の経緯は、どうもはつきり筋道が立たなかつたし、それに、順一はこのことについては必要以外のことは決して喋ら
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