、ふと、汗まみれの正三の頭には浮ぶのであつた。……暫くすると、清二の一家がやつて来る。嫂は赤ん坊を背負ひ、女中は何か荷を抱へてゐる。康子は小さな甥の手をひいて、とつとと先頭にゐる。(彼女はひとりで逃げてゐると、警防団につかまりひどく叱られたことがあるので、それ以来この甥を貸りるやうになつた。)清二と中学生の甥は並んで後からやつて来る。それから、その辺の人家のラジオに耳を傾けながら、情勢次第によつては更に川上に溯つてゆくのだ。長い堤をづんづん行くと、人家も疏らになり、田の面や山麓が朧に見えて来る。すると、蛙の啼声が今あたり一めんにきこえて来る。ひつそりとした夜陰のなかを逃げのびてゆく人影はやはり絶えない。いつのまにか夜が明けて、おびただしいガスが帰路一めんに立罩めてゐることもあつた。
時には正三は単独で逃亡することもあつた。彼は一ヶ月前から在郷軍人の訓練に時折、引ぱり出されてゐたが、はじめ頃廿人あまり集合してゐた同類も、次第に数を減じ、今では四五名にすぎなかつた。「いづれ八月には大召集がかかる」と分会長はいつた。はるか宇品の方の空では探照燈が揺れ動いてゐる夕闇の校庭に立たされて、予備少
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