尉の話をきかされてゐる時、正三は気もそぞろであつた。訓練が了へて、家へ戻つたかとおもふと、サイレンが鳴りだすのだつた。だが、つづいて空襲警報が鳴りだす頃には、正三はぴちんと身支度を了へてゐる。あわただしい訓練のつづきのやうに、彼は闇の往来へ飛出すのだ。それから、かつかと鳴る靴音をききながら、彼は帰宅を急いでゐる者のやうな風を粧ふ。橋の関所を無事に通越すと、やがて饒津裏の堤へ来る。……ここではじめて、正三は立留まり、叢に腰を下ろすのであつた。すぐ川下の方には鉄橋があり、水の退いた川には白い砂洲が朧に浮上つてゐる。それは少年の頃からよく散歩して見憶えてゐる景色だが、正三には、頭上にかぶさる星空が、ふと野戦のありさまを想像さすのだつた。『戦争と平和』に出て来る、ある人物の眼に映じる美しい大自然のながめ、静まりかへつた心境、――さういつたものが、この己の死際にも、はたして訪れて来るだらうか。すると、ふと正三の蹲つてゐる叢のすぐ上の杉の梢の方で、何か微妙な啼声がした。おや、ほととぎすだな、さうおもひながら正三は何となく不思議な気持がした。この戦争が本土決戦に移り、もしも広島が最後の牙城となるとし
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