の慟哭とでもいふのであらうか。後の歴史家はこれを何と形容するだらうか。――そんな感想や、それから、……それにしても昔、この自分は街にやつて来る獅子の笛を遠方からきいただけでも真青になつて逃げて行つたが、あの頃の恐怖の純粋さと、この今の恐怖とでは、どうも今では恐怖までが何か鈍重な枠に嵌めこまれてゐる。――そんな念想が正三の頭に浮かぶのも数秒で、彼は息せききらせて、堤に出る石段を昇つてゐる。清二の家の門口に駈けつけると、一家揃つて支度を了へてゐることもあつたが、まだ何の身支度もしてゐないこともあつた。正三がここへ現れるのと前後して康子は康子でそこへ駈けつけて来る。……「ここの紐結んで頂戴」と小さな姪が正三に頭巾を差出す。彼はその紐をかたく結んでやると、くるりと姪を背に背負ひ、皆より一足さきに門口を出て行く。栄橋を渡つてしまふと、とにかく吻として足どりも少し緩くなる。鉄道の踏切を越え、饒津の堤に出ると、正三は背負つていた姪を叢に下ろす。川の水は仄白く、杉の大木は黒い影を路に投げてゐる。この小さな姪はこの景色を記憶するであらうか。幼い日々が夜毎、夜毎の逃亡にはじまる「ある女の生涯」といふ小説が
前へ
次へ
全60ページ中48ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
原 民喜 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング