玄関の戸をいくら叩いても何の手ごたへもない。既に逃げ去つた後らしかつた。正三はあたふたと堤の路を突きつて栄橋の方へ進んだ。橋の近くまで来た時、サイレンは空襲を唸りだすのであつた。
 夢中で橋を渡ると、饒津公園裏の土手を廻り、いつの間にか彼は牛田方面へ向かふ堤まで来てゐた。この頃、漸く正三は彼のすぐ周囲をぞろぞろと犇いてゐる人の群に気づいてゐた。それは老若男女、あらゆる市民の必死のいでたちであつた。鍋釜を満載したリヤカーや、老母を載せた乳母車が、雑沓のなかを掻きわけて行く。軍用犬に自転車を牽かせながら、颯爽[#「颯爽」は底本では「爽颯」と誤植]と鉄兜を被つてゐる男、杖にとり縋り跛をひいてゐる老人。トラツクが来た。馬が通る。薄闇の狭い路上がいま祭日のやうに賑はつてゐるのだつた。……正三は樹蔭の水槽の傍にある材木の上に腰を下ろした。
「この辺なら大丈夫でせうか」と通りがかりの老婆が訊ねた。
「大丈夫でせう、川もすぐ前だし、近くに家もないし」さういつて彼は水筒の栓を捻つた。いま広島の街の空は茫と白んで、それはもういつ火の手があがるかもしれないやうにおもへた。街が全焼してしまつたら、明日から己は
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