に一度もなかつたことである。梯子を掛けると、正三はペタペタと白壁の扉の隙間に赤土をねぢ込んで行つた。それが終つた頃順一の姿はもうそこには見えなかつた。正三は気になるので、清二の家に立寄つてみた。「今夜が危いさうだが……」正三が云ふと、「ええ、それがその秘密なのだけど近所の児島さんもそんなことを夕方役所からきいて帰り……」と、何か一生懸命、袋にものを詰めながら光子はだらだらと弁じだした。
一とほり用意も出来て、階下の六畳、――その頃正三は階下で寝るやうになつてゐた、――の蚊帳にもぐり込んだ時であつた。ラジオが土佐沖海面警戒警報を告げた。正三は蚊帳の中で耳を澄ました。高知県、愛媛県が警戒警報になり、つづいてそれは空襲警報に移つてゐた。正三は蚊帳の外に匐ひ出すと、ゲートルを捲いた。それから雑嚢と水筒を肩に交錯させると、その上をバンドで締めた。玄関で靴を探し、最後に手袋を嵌めた時、サイレンが警戒警報を放つた。彼はとつとと表へ飛び出すと、清二の家の方へ急いだ。暗闇のなかを固い靴底に抵抗するアスフアルトがあつた。正三はぴんと立つてうまく歩いてゐる己の脚を意識した。清二の家の門は開け放たれてゐた。
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