、朝の陽も大分高くなつてゐた頃であつたが、ここにも茫とした顔つきの睡むさうな人々ばかりと出逢つた。
「うかうかしてゐる時ではない。早速、工場は疎開させる」
 順一は清二の顔を見ると、すぐにさう宣告した。ミシンの取りはづし、荷馬車の下附を県庁へ申請すること、家財の再整理、――順一にはまた急な用件が山積した。相談相手の清二は、しかし、末節に疑義を挿むばかりで、一向てきぱきしたところがなかつた。順一はピシピシと鞭を振ひたいおもひに燃立つのだつた。

 その翌々日、こんどは広島の大空襲だといふ噂がパツと拡がつた。上田が夕刻、糧秣廠からの警告を順一に伝へると、順一は妹を急かして夕食を早目にすまし、正三と康子を顧みて云つた。
「儂はこれから出掛けて行くが、あとはよろしく頼む」
「空襲警報が出たら逃げるつもりだが……」正三が念を押すと順一は頷いた。
「駄目らしかつたらミシンを井戸へ投込んでおいてくれ」
「蔵の扉を塗りつぶしたら……今のうちにやつてしまはうかしら」
 ふと、正三は壮烈な気持が湧いて来た。それから土蔵の前に近づいた。かねて赤土は粘つてあつたが、その土蔵の扉を塗り潰ぶすことは、父の代には遂
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