どうなるのだらう、さう思ひながらも、正三は目の前の避難民の行衛に興味を感じるのであつた。『ヘルマンとドロテア』のはじめに出て来る避難民の光景が浮んだ。だが、それに較べると何とこれは怕しく空白な情景なのだらう。……暫くすると、空襲警報が解除になり、つづいて警戒警報も解かれた。人々はぞろぞろと堤の路を引上げて行く。正三もその路をひとりひきかへして行つた。路は来た折よりも更に雑沓してゐた。何か喚きながら、担架が相次いでやつて来る。病人を運ぶ看護人たちであつた。

 空から撒布されたビラは空襲の切迫を警告してゐたし、脅えた市民は、その頃、日没と同時にぞろぞろと避難行動を開始した。まだ何の警報もないのに、川の上流や、郊外の広場や、山の麓は、さうした人々で一杯になり、叢では、蚊帳や、夜具や、炊事道具さへ持出された。朝昼なしに混雑する宮島線の電車は、夕刻になると更に殺気立つ。だが、かうした自然の本能をも、すぐにその筋はきびしく取締りだした。ここでは防空要員の疎開を認めないことは、既に前から規定されてゐたが、今度は防空要員の不在をも監視しようとし、各戸に姓名年齢を記載させた紙を貼り出させた。夜は、橋の
前へ 次へ
全60ページ中46ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
原 民喜 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング