ンは重要書類とほんの身につける品だけを容れるためなのだと、正三がいくら説明しても、順一はとりあつてくれなかつた。……「ふーん」と正三は大きな溜息をついた。彼には順一の心理がどうも把めないのであつた。「拗ねてやるといいのよ。わたしなんか泣いたりして困らしてやる」と、康子は順一の操縦法を説明してくれた。鏡台の件にしても、その後けろりとして順一は疎開させてくれたのであつた。だが、正三にはじわじわした駈引は出来なかつた。……彼は清二の家へ行つてカバンのことを話した。すると清二は恰度いい布地を取出し、「これ位あつたら作れるだらう。米一斗といふところだが、何かよこすか」といふのであつた。布地を手に入れると正三は康子にカバンの製作を頼んだ。すると、妹は、「逃げることばかり考へてどうするの」と、これもまた意地のわるいことを云ふのであつた。

 四月三十日に爆撃があつたきり、その後ここの街はまだ空襲を受けなかつた。随つて街の疎開にも緩急があり、人心も緊張と弛緩が絶えず交替してゐた。警報は殆ど連夜出たが、それは機雷投下ときまつてゐたので、森製作所でも監視当番制を廃止してしまつた。だが、本土決戦の気配は次第
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