い空間は、どろんとした湿気が溢れて、正三はまるで見知らぬ土地を歩いてゐるやうな気持がするのであつた。……だが、彼の足はその堤を通りすぎると、京橋の袂へ出、それから更に川に添つた堤を歩いてゆく。清二の家の門口まで来かかると、路傍で遊んでゐた姪がまづ声をかけ、つづいて一年生の甥がすばやく飛びついてくる。甥はぐいぐい彼の手を引張り、固い小さな爪で、正三の手首を抓るのであつた。
その頃、正三は持逃げ用の雑嚢を欲しいとおもひだした。警報の度毎に彼は風呂敷包を持歩いてゐたが、兄たちは立派なリユツクを持つてゐたし、康子は肩からさげるカバンを拵へてゐた。布地さへあればいつでも縫つてあげると康子は請合つた。そこで、正三は順一に話を持かけると、「カバンにする布地?」と順一は呟いて、そんなものがあるのか無いのか曖昧な顔つきであつた。そのうちには出してくれるのかと待つてゐたが一向はつきりしないので、正三はまた順一に催促してみた。すると、順一は意地悪さうに笑ひながら、「そんなものは要らないよ。担いで逃げたいのだつたら、そこに吊してあるリユツクのうち、どれでもいいから持つて逃げてくれ」と云ふのであつた。そのカバ
前へ
次へ
全60ページ中35ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
原 民喜 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング