りに来る。すると、黒板の塀一重を隔てて、工場の露路の方でいま作業から解放された学徒たちの賑やかな声がきこえる。正三がこちらの食堂の縁側に腰を下ろし、すぐ足もとの小さな池に憂鬱な目ざしを落してゐると、工場の方では学徒たちの体操が始まり、一、二、一、二と級長の晴れやかな号令がきこえる。そのやさしい弾みをもつた少女の声だけが、奇妙に正三の心を慰めてくれるやうであつた。……三時頃になると、彼はふと思ひついたやうに、二階の自分の部屋に帰り、靴下の修繕をした。すると、庭を隔てて、向の事務室の二階では、せつせつと立働いてゐる女工たちの姿が見え、モーターミシンの廻転する音響もここまできこえて来る。正三は針のめどに指先を惑はしながら、「これを穿いて逃げる時」とそんな念想が閃めくのであつた。
……それから日没の街を憮然と歩いてゐる彼の姿がよく見かけられた。街はつぎつぎに建ものが取払はれてゆくので、思ひがけぬところに広場がのぞき、粗末な土の壕が蹲つてゐた。滅多に電車も通らないだだ広い路を曲ると、川に添つた堤に出て、崩された土塀のほとりに、無花果の葉が重苦しく茂つてゐる。薄暗くなつたまま容易に夜に溶け込まな
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