一が、この切ない、ひとの気持は分つてくれないのだらうか。……彼女はまたあの晩の怕い順一の顔つきを想ひ浮かべてゐた。
それは高子が五日市町に疎開する手筈のできかかつた頃のことであつた。妻のかはりに妹をこの家に移し一切を切廻さすことにすると、順一は主張するのであつたが、康子はなかなか承諾しなかつた。一つには身勝手な嫂に対するあてこすりもあつたが、加計町の方へ疎開した子供のことも気になり、一そのこと保姆になつて其処へ行つてしまはうかとも思ひ惑つた。嫂と順一とは康子をめぐつて宥めたり賺せたりしようとするのであつたが、もう夜も更けかかつてゐた。
「どうしても承諾してくれないのか」と順一は屹となつてたづねた。
「ええ、やつぱし広島は危険だし、一そのこと加計町の方へ……」と、康子は同じことを繰返した。突然、順一は長火鉢の側にあつたネーブルの皮を掴むと、向の壁へピシヤリと擲げつけた。狂暴な空気がさつと漲つた。
「まあ、まあ、もう一ぺん明日までよく考へてみて下さい」と嫂はとりなすやうに言葉を挿んだが、結局、康子はその夜のうちに承諾してしまつたのであつた。……暫く康子は眼もとがくらくらするやうな状態で家
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