らすといい」と順一も云つてくれた程だし、一こと彼が西崎に命じてくれれば直ぐ解決するのだつたが、己の疎開にかまけてゐる順一は、もうそんなことは忘れたやうな顔つきだつた。直接、西崎に頼むのはどうも気がひけた。高子の命令なら無条件に従ふ西崎も康子のことになると、とかく渋るやうにおもへた。……その朝、康子は事務室から釘抜を持つて土蔵の方へやつて来た順一の姿を注意してみると、その顔は穏かに凪いでゐたので、頼むならこの時とおもつて、早速、鏡台のことを持ちかけた。
「鏡台?」と順一は無感動に呟いた。
「ええ、あれだけでも速く疎開させておきたいの」と康子はとり縋るやうに兄の眸を視つめた。と、兄の視線はちらと脇へ外らされた。
「あんな、がらくた、どうなるのだ」さういふと順一はくるりとそつぽを向いて行つてしまつた。はじめ、康子はすとんと空虚のなかに投げ出されたやうな気持であつた。それから、つぎつぎに憤りが揺れ、もう凝としてゐられなかつた。がらくたといつても、度重なる移動のためにあんな風になつたので、彼女が結婚する時まだ生きてゐた母親がみたててくれた記念の品であつた。自分のものになると箒一本にまで愛着する順
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