鉄拳が閃いた。と、その時、校庭にあるサイレンが警戒警報の唸りを放ちだした。その、もの哀しげな太い響は、この光景にさらに凄惨な趣を加へるやうであつた。やがてサイレンが歇むと、教官は自分の演じた効果に大分満足したらしく、
「今から、この男を憲兵隊へ起訴してやる」と一同に宣言し、それから、はじめて出発を命じるのであつた。……一同が西練兵場へ差しかかると、雨がぽちぽち落ちだした。荒々しい歩調の音が堀に添つて進んだ。その堀の向が西部二部隊であつたが、仄暗い緑の堤にいま躑躅の花が血のやうに咲乱れてゐるのが、ふと正三の眼に留まつた。

 康子の荷物は息子の学童疎開地へ少し送つたのと、知り合ひの田舎へ一箱預けたほかは、まだ大部分順一の家の土蔵にあつた。身のまはりの品と仕事道具は、ミシンを据ゑた六畳の間に置かれたが、部屋一杯、仕かかりの仕事を展げて、その中でのぼせ気味に働くのが好きな彼女は、そこが乱雑になることは一向気にならなかつた。雨がちの天気で、早くから日が暮れると鼠がごそごそ這ひのぼつて、ボール函の蔭へ隠[#「隠」は底本では「陰」と誤植]れたりした。綺麗好きの順一は時々、妹を叱りつけるのだが、康子
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