を圧倒するのであつた。
艦載機がこの街に現れてから九日目に、また空襲警報が出た。が、豊後水道から侵入した編隊は佐田岬で迂廻し、続々と九州へ向かふのであつた。こんどは、この街には何ごともなかつたものの、この頃になると、遽かに人も街も浮足立つて来た。軍隊が出動して、街の建物を次々に破壊して行くと、昼夜なしに疎開の車馬が絶えなかつた。
昼すぎ、みんなが外出したあとの事務室で、正三はひとり岩波新書の『零の発見』を読み耽けつてゐた。ナポレオン戦役の時、ロシア軍の捕虜になつたフランスの一士官が、憂悶のあまり数学の研究に没頭してゐたといふ話は、妙に彼の心に触れるものがあつた。……ふと、せかせかと清二が戻つて来た。何かよほど興奮してゐるらしいことが、顔つきに現れてゐた。
「兄貴はまだ帰らぬか」
「まだらしいな」正三はぼんやり応へた。相変らず、順一は留守がちのことが多く、高子との紛争も、その後どうなつてゐるのか、第三者には把めないのであつた。
「ぐづぐづしてはゐられないぞ」清二は怒気を帯びた声で話しだした。「外へ行つて見て来るといい。竹屋町の通りも平田屋町辺もみんな取払はれてしまつたぞ。被服支廠も
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