も態度もキビキビしてゐた。だが、かすかに言葉に――といふよりも心の矛盾に――つかへてゐるやうなところもあつた。正三がじろじろ観察してゐると、順一の視線とピツタリ出喰はした。それは何かに挑みかかるやうな、不思議な光を放つてゐた。……学徒の合唱が終ると、彼女たちはその日から賑やかに工場へ流れて行つた。毎朝早くからやつて来て、夕方きちんと整列して先生に引率されながら帰つてゆく姿は、ここの製作所に一脈の新鮮さを齎し、多少の潤ひを混へるのであつた。そのいぢらしい姿は正三の眼にも映つた。
正三は事務室の片隅で釦を数へてゐた。卓の上に散らかつた釦を百箇づつ纏めればいいのであるが、のろのろと馴れない指さきで無器用なことを続けてゐると、来客と応対しながらじろじろ眺めてゐた順一はとうとう堪りかねたやうに、「そんな数へ方があるか、遊びごとではないぞ」と声をかけた。せつせと手紙を書きつづけてゐた片山が、すぐにペンを擱いて、正三の側にやつて来た。「あ、それですか、それはかうして、こんな風にやつて御覧なさい」片山は親切に教へてくれるのであつた。この彼よりも年下の、元気な片山は、恐しいほど気がきいてゐて、いつも彼を圧倒するのであつた。
艦載機がこの街に現れてから九日目に、また空襲警報が出た。が、豊後水道から侵入した編隊は佐田岬で迂廻し、続々と九州へ向かふのであつた。こんどは、この街には何ごともなかつたものの、この頃になると、遽かに人も街も浮足立つて来た。軍隊が出動して、街の建物を次々に破壊して行くと、昼夜なしに疎開の車馬が絶えなかつた。
昼すぎ、みんなが外出したあとの事務室で、正三はひとり岩波新書の『零の発見』を読み耽けつてゐた。ナポレオン戦役の時、ロシア軍の捕虜になつたフランスの一士官が、憂悶のあまり数学の研究に没頭してゐたといふ話は、妙に彼の心に触れるものがあつた。……ふと、せかせかと清二が戻つて来た。何かよほど興奮してゐるらしいことが、顔つきに現れてゐた。
「兄貴はまだ帰らぬか」
「まだらしいな」正三はぼんやり応へた。相変らず、順一は留守がちのことが多く、高子との紛争も、その後どうなつてゐるのか、第三者には把めないのであつた。
「ぐづぐづしてはゐられないぞ」清二は怒気を帯びた声で話しだした。「外へ行つて見て来るといい。竹屋町の通りも平田屋町辺もみんな取払はれてしまつたぞ。被服支廠もいよいよ疎開だ」
「ふん、さういふことになつたのか。してみると、広島は東京よりまづ三月ほど立遅れてゐたわけだね」正三が何の意味もなくそんなことを呟くと、
「それだけ広島が遅れてゐたのは有難いと思はねばならぬではないか」と清二は眼をまじまじさせて、なほも硬い表情をしてゐた。
……大勢の子供を抱へた清二の家は、近頃は次から次へとごつたかへす要件で紛糾してゐた。どの部屋にも、疎開の衣類が跳繰りだされ、それに二人の子供は集団疎開に加はつて近く出発することになつてゐたので、その準備だけでも大変だつた。手際のわるい光子はのろのろと仕事を片づけ、どうかすると無駄話に時を浪費してゐる。清二は外から帰つて来ると、いつも苛々した気分で妻にあたり散らすのであつたが、その癖、夕食が済むと、奥の部屋に引籠つて、せつせとミシンを踏んだ。リユツクサツクを縫ふのであつた。しかし、リユツクなら既に二つも彼の家にはあつたし、急ぐ品でもなささうであつた。清二はただ、それを拵へる面白さに夢中だつた。「なあにくそ、なあにくそ」とつぶやきながら、針を運んだ。「職人なんかに負けてたまるものか」事実、彼の拵へたリユツクは下手な職人の品よりか優秀であつた。
……かうして、清二は清二なりに何か気持を紛らし続けてゐたのだが、今日、被服支廠に出頭すると、工場疎開を命じられたのには、急に足許が揺れだす思ひがした。それから帰路、竹屋町辺まで差しかかると、昨日まで四十何年間も見馴れた小路が、すつかり歯の抜けたやうになつてゐて、兵隊は滅茶苦茶に鉈を振るつてゐる。廿代に二三年他郷に遊学したほかは、殆どこの郷土を離れたこともなく、与へられた仕事を堪へしのび、その地位も漸く安定してゐた清二にとつて、これは堪へがたいことであつた。……一体全体どうなるのか。正三などにわかることではなかつた。彼は、一刻も速く順一に会つて、工場疎開のことを告げておきたかつた。親身で兄と相談したいことは、いくらもあるやうな気持がした。それなのに、順一は順一で高子のことに気を奪はれ、今は何のたよりにもならないやうであつた。
清二はゲートルをとりはづし、暫くぼんやりしてゐた。そのうちに上田や三浦が帰つて来ると、事務室は建物疎開の話で持ちきつた。「乱暴なことをする喃。ちうに、鋸で柱をゴシゴシ引いて、縄かけてエンヤサエンヤサと引張り、それで片つぱしからめいで行く
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