正三に自然に浮んで来るテーマであつた。

「来たぞ」といつて、清二は正三の眼の前に一枚の紙片を差出した。点呼令状であつた。正三はじつとその紙に眼をおとし、印刷の隅々まで読みかへした。
「五月か」と彼はさう呟いた。正三は昨年、国民兵の教育召集を受けた時ほどにはもう驚かなかつた。が、しかし清二は彼の顔に漾ふ苦悶の表情をみてとつて、「なあに、どつちみち、今となつては、内地勤務だ、大したことないさ」と軽くうそぶいた。……五月といへば、二ヶ月さきのことであつたが、それまでこの戦争が続くだらうか、と正三は窃かに考へ耽つた。
 何といふことなしに正三は、ぶらぶらと街をよく散歩した。妹の息子の乾一を連れて、久振りに泉邸へも行つてみた。昔、彼が幼なかつたとき彼もよく誰かに連れられて訪れたことのある庭園だが、今も淡い早春の陽ざしのなかに樹木や水はひつそりとしてゐた。絶好の避難場所、さういふ念想がすぐ閃めくのであつた。……映画館は昼間から満員だつたし、盛場の食堂はいつも賑はつてゐた。正三は見覚えのある小路を選んでは歩いてみたが、どこにももう子供心に印されてゐた懐しいものは見出せなかつた。下士官に引率された兵士の一隊が悲壮な歌をうたひながら、突然、四つ角から現れる。頭髪に白鉢巻をした女子勤労学徒の一隊が、兵隊のやうな歩調でやつて来るのともすれちがつた。
 ……橋の上に佇んで、川上の方を眺めると、正三の名称を知らない山々があつたし、街のはての瀬戸内海の方角には島山が、建物の蔭から顔を覗けた。この街を包囲してゐるそれらの山々に、正三はかすかに何かよびかけたいものを感じはじめた。……ある夕方、彼はふと町角を通りすぎる二人の若い女に眼が惹きつけられた。健康さうな肢体と、豊かなパーマネントの姿は、明日の新しいタイプかとちよつと正三の好奇心をそそつた。彼は彼女たちの後を追ひ、その会話を漏れ聴かうと試みた。
「お芋がありさへすりやあ、ええわね」
 間ののびた、げつそりするやうな、声であつた。

 森製作所では六十名ばかりの女子学徒が、縫工場の方へやつて来ることになつてゐた。学徒受入式の準備で、清二は張切つてゐたし、その日が近づくにつれて、今迄ぶらぶらしてゐた正三も自然、事務室の方へ姿を現はし、雑用を手伝はされた。新しい作業服を着て、ガラガラと下駄をひきずりながら、土蔵の方から椅子を運んでくる正三の様子は、慣れない仕事に抵抗しようとするやうな、ぎこちなさがあつた。……椅子が運ばれ、幕が張られ、それに清二の書いた式順の項目が掲示され、式場は既に整つてゐた。その日は九時から式が行はれるはずであつた。だが、早朝から発せられた空襲警報のために、予定はすつかり狂つてしまつた。
「……備前岡山、備後灘、松山上空」とラジオは艦載機来襲を刻々と告げてゐる。正三の身支度が出来た頃、高射砲が唸りだした。この街では、はじめてきく高射砲であつたが、どんよりと曇つた空がかすかに緊張して来た。だが、機影は見えず、空襲警報は一旦、警戒警報に移つたりして、人々はただそはそはしてゐた。……正三が事務室へ這入つて行くと、鉄兜を被つた上田の顔と出逢つた。
「とうとう、やつて来ましたの、なんちゆうことかいの」
 と、田舎から通勤して来る上田は彼に話しかける。その逞しい体躯や淡泊な心を現はしてゐる相手の顔つきは、いまも何となしに正三に安堵の感を抱かせるのであつた。そこへ清二のジヤンパー姿が見えた。顔は颯爽と笑みを浮かべようとして、眼はキラキラ輝いてゐた。……上田と清二が表の方へ姿を消し、正三ひとりが椅子に腰を下ろしてゐた時であつた。彼は暫くぼんやりと何も考へてはゐなかつたが、突然、屋根の方を、ビユンと唸る音がして、つづいて、バリバリと何か裂ける響がした。それはすぐ頭上に墜ちて来さうな感じがして、正三の視覚はガラス窓の方へつ走つた。向の二階の簷と、庭の松の梢が、一瞬、異常な密度で網膜に映じた。音響はそれきり、もうきこえなかつた。暫くすると、表からドカドカと人々が帰つて来た。「あ、魂消た、度胆を抜かれたわい」と三浦は歪んだ笑顔をしてゐた。……警報解除になると、往来をぞろぞろと人が通りだした。ざわざわしたなかに、どこか浮々した空気さへ感じられるのであつた。すぐそこで拾つたのだといつて誰かが砲弾の破片を持つて来た。
 その翌日、白鉢巻をした小さな女学生の一クラスが校長と主任教師に引率されてぞろぞろとやつて来ると、すぐに式場の方へ導かれ、工員たちも全部着席した頃、正三は三浦と一緒に一番後からしんがりの椅子に腰を下ろしてゐた。県庁動員課の男の式辞や、校長の訓示はいい加減に聞流してゐたが、やがて、立派な国民服姿の順一が登壇すると、正三は興味をもつて、演説の一言一句をききとつた。かういふ行事には場を踏んで来たものらしく、声
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