のだから、瓦も何もわや苦茶ぢや」と上田は兵隊の早業に感心してゐた。「永田の紙屋なんか可哀相なものさ。あの家は外から見ても、それは立派な普請だが、親爺さん床柱を撫でてわいわい泣いたよ」と三浦は見てきたやうに語る。すると、清二も今はニコニコしながら、この話に加はるのであつた。そこへ冴えない顔つきをして順一も戻つて来た。
四月に入ると、街にはそろそろ嫩葉も見えだしたが、壁土の土砂が風に煽られて、空気はひどくザラザラしてゐた。車馬の往来は絡繹とつづき、人間の生活が今はむき出しで晒されてゐた。
「あんなものまで運んでゐる」と、清二は事務室の窓から外を眺めて笑つた。台八車に雉子の剥製が揺れながら見えた。「情ないものぢやないか。中国が悲惨だとか何とか云ひながら、こちらだつて中国のやうになつてしまつたぢやないか」と、流転の相に心を打たれてか、順一もつぶやいた。この長兄は、要心深く戦争の批判を避けるのであつたが、硫黄島が陥落した時には、「東条なんか八つ裂きにしてもあきたらない」と漏らした。だが、清二が工場[#「工場」は底本では「工組」と誤植]疎開のことを急かすと、「被服支廠から真先に浮足立つたりしてどうなるのだ」と、あまり賛成しないのであつた。
正三もゲートルを巻いて外出することが多くなつた。銀行、県庁、市役所、交通公社、動員署――どこへ行つても簡単な使ひであつたし、帰りにはぶらぶらと巷を見て歩いた。……堀川町の通がぐいと思ひきり切開かれ、土蔵だけを残し、ギラギラと破壊の跡が遠方まで展望されるのは、印象派の絵のやうであつた。これはこれで趣もある、と正三は強ひてそんな感想を抱かうとした。すると、ある日、その印象派の絵の中に真白な鴎が無数に動いてゐた。勤労奉仕の女学生たちであつた。彼女たちはピカピカと光る破片の上におりたち、白い上衣に明るい陽光を浴びながら、てんでに弁当を披いてゐるのであつた。……古本屋へ立寄つてみても、書籍の変動が著しく、狼狽と無秩序がここにも窺はれた。「何か天文学の本はありませんか」そんなことを尋ねてゐる青年の声がふと彼の耳に残つた。
……電気休みの日、彼は妻の墓を訪れ、その序でに饒津公園の方を歩いてみた。以前この辺は花見遊山の人出で賑はつたものだが、さうおもひながら、ひつそりとした木蔭を見やると、老婆と小さな娘がひそひそと弁当をひろげてゐた。桃の花が満開で、柳の緑は燃えてゐた。だが、正三にはどうも、まともに季節の感覚が映つて来なかつた。何かがずれさがつて、恐しく調子を狂はしてゐる。――そんな感想を彼は友人に書き送つた。岩手県の方に疎開してゐる友からもよく便りがあつた。「元気でゐて下さい。細心にやつて下さい」さういふ短かい言葉の端にも正三は、ひたすら終戦の日を祈つてゐるものの気持を感じた。だが、その新しい日まで己は生きのびるのだらうか……。
片山のところに召集令状がやつて来た。精悍な彼は、いつものやうに冗談をいひながら、てきぱきと事務の後始末をして行くのであつた。
「これまで点呼を受けたことはあるのですか」と正三は彼に訊ねた。
「それも今年はじめてある筈だつたのですが、……いきなりこれでさあ。何しろ、千年に一度あるかないかの大いくさですよ」と片山は笑つた。
長い間、病気のため姿を現はさなかつた三津井老人が事務室の片隅から、憂はしげに彼等の様子を眺めてゐたが、このとき静かに片山の側に近寄ると、
「兵隊になられたら、馬鹿になりなさいよ、ものを考へてはいけませんよ」と、息子に云ひきかすやうに云ひだした。
……この三津井老人は正三の父の時代から店にゐた人で、子供のとき正三は一度学校で気分が悪くなり、この人に迎へに来てもらつた記憶がある。そのとき三津井は青ざめた彼を励ましながら、川のほとりで嘔吐する肩を撫でてくれた。そんな、遠い、細かなことを、無表情に近い、窄んだ顔は憶えてゐてくれるのだらうか。正三はこの老人が今日のやうな時代をどう思つてゐるか、尋ねてみたい気持になることもあつた。だが、老人はいつも事務室の片隅で、何か人を寄せつけない頑なものを持つてゐた。
……あるとき、経理部から、暗幕につける環を求めて来たことがある。上田が早速、倉庫から環の箱を取出し、事務室の卓に並べると、「そいつは一箱いくつ這入つてゐますか」と経理部の兵は訊ねた。「千箇でさあ」と上田は無造作に答へた。隅の方で、じろじろ眺めてゐた老人はこのとき急に言葉をさし挿んだ。
「千箇? そんな筈はない」
上田は不思議さうに老人を眺め、
「千箇でさあ、これまでいつもさうでしたよ」
「いいや、どうしても違ふ」
老人は立上つて秤を持つて来た。それから、百箇の環の目方を測ると、次に箱全体の環を秤にかけた。全体を百で割ると、七百箇であつた。
森製作所では片山の送
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