が正三の方へ声をかける。正三は直かに胸を衝かれ、襟を正さねばならぬ気持がするのであつた。それから彼が事務室の闇を手探りながら、ラジオに灯りを入れた頃、厚い防空頭巾を被つた清二がそはそはやつて来る。「誰かゐるのか」と清二は灯の方へ声をかけ、椅子に腰を下ろすのだが、すぐまた立上つて工場の方を見て廻つた。さうして、警報が出た翌朝も、清二は早くから自転車で出勤した。奥の二階でひとり朝寝をしてゐる正三のところへ、「いつまで寝てゐるのだ」と警告しに来るのも彼であつた。
 今も正三はこの兄の忙しげな容子にいつもの警告を感じるのであつたが、清二は『希臘芸術模倣論』を元の位置に置くと、ふとかう訊ねた。
「兄貴はどこへ行つた」
「けさ電話かかつて、高須の方へ出掛けたらしい」
 すると、清二は微かに眼に笑みを浮べながら、ごろりと横になり、「またか、困つたなあ」と軽く呟くのであつた。それは正三の口から順一の行動について、もつといろんなことを喋りだすのを待つてゐるやうであつた。だが、正三には長兄と嫂とのこの頃の経緯は、どうもはつきり筋道が立たなかつたし、それに、順一はこのことについては必要以外のことは決して喋らないのであつた。

 正三が本家へ戻つて来たその日から、彼はそこの家に漾ふ空気の異状さに感づいた。それは電燈に被せた黒い布や、いたるところに張りめぐらした暗幕のせゐではなく、また、妻を喪つて仕方なくこの不自由な時節に舞戻つて来た弟を歓迎しない素振ばかりでもなく、もつと、何かやりきれないものが、その家には潜んでゐた。順一の顔には時々、嶮しい陰翳が抉られてゐたし、嫂の高子の顔は思ひあまつて茫と疼くやうなものが感じられた。三菱へ学徒動員で通勤してゐる二人の中学生の甥も、妙に黙り込んで陰鬱な顔つきであつた。
 ……ある日、嫂の高子がその家から姿を晦ました。すると順一のひとり忙しげな外出が始まり、家の切廻しは、近所に棲んでゐる寡婦の妹に任せられた。この康子は夜遅くまで二階の部屋にやつて来ては、のべつまくなしに、いろんなことを喋つた。嫂の失踪はこんどが初めてではなく、もう二回も康子が家の留守をあづかつてゐることを正三は知つた。この三十すぎの小姑の口から描写される家の空気は、いろんな臆測と歪曲に満ちてゐたが、それだけに正三の頭脳に熱つぽくこびりつくものがあつた。
 ……暗幕を張つた奥座敷に、飛きり贅
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