あらうか。賭にも等しい運命であつた。どうかすると、その街が何ごともなく無疵のまま残されること、――そんな虫のいい、愚かしいことも、やはり考へ浮かぶのではあつた。

 黒羅紗の立派なジヤンパーを腰のところで締め、綺麗に剃刀のあたつた頤を光らせながら、清二は忙しげに正三の部屋の入口に立ちはだかつた。
「おい、何とかせよ」
 さういふ語気にくらべて、清二の眼の色は弱かつた。彼は正三が手紙を書きかけてゐる机の傍に坐り込むと、側にあつた※[#濁点付き片仮名「ヰ」、1−7−83]ンゲルマンの『希臘芸術模倣論』の挿絵をパラパラとめくつた。正三はペンを擱くと、黙つて兄の仕草を眺めてゐた。若いとき一時、美術史に熱中したことのあるこの兄は、今でもさういふものには惹きつけられるのであらうか……。だが、清二はすぐにパタンとその本を閉ぢてしまつた。
 それはさきほどの「何とかせよ」といふ語気のつづきのやうにも正三にはおもへた。長兄のところへ舞戻つて来てからもう一ヶ月以上になるのに、彼は何の職に就くでもなし、ただ朝寝と夜更かしをつづけてゐた。
 彼にくらべると、この次兄は毎日を規律と緊張のうちに送つてゐるのであつた。製作所が退けてからも遅くまで、事務室の方に灯がついてゐることがある。そこの露次を通りかかつた正三が事務室の方へ立寄つてみると、清二はひとり机に凭つて、せつせと書きものをしてゐた。工員に渡す月給袋の捺印とか、動員署へ提出する書類とか、さういふ事務的な仕事に満足してゐることは、彼が書く特徴ある筆蹟にも窺はれた。判で押したやうな型に嵌まつた綺麗な文字で、いろんな掲示が事務室の壁に張りつけてある。……正三がぼんやりその文字に見とれてゐると、清二はくるりと廻転椅子を消えのこつた煉炭ストーブの方へ向けながら、「タバコやらうか」と、机の引出から古びた鵬翼の袋を取出し、それから棚の上のラジオにスイツチを入れるのだつた。ラジオは硫黄島の急を告げてゐた。話はとかく戦争の見とほしになるのであつた。清二はぽつんと懐疑的なことを口にしたし、正三ははつきり絶望的な言葉を吐いた。……夜間、警報が出ると、清二は大概、事務室へ駈けつけて来た。警報が出てから五分もたたない頃、表の呼鈴が烈しく鳴る。寝呆け顔の正三が露次の方から、内側の扉を開けると、表には若い女が二人佇んでゐる。監視当番の女工員であつた。「今晩は」と一人
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