のうちをあてもなく歩き廻つてゐたが、何時の間にか階段を昇ると二階の正三の部屋に来てゐた。そこには、朝つぱらからひとり引籠つて靴下の修繕をしてゐる正三の姿があつた。順一のことを一気に喋り了ると、はじめて泪があふれ流れた。そして、いくらか気持が落着くやうであつた。正三は憂はしげにただ黙々としてゐた。
点呼が了つてからの正三は、自分でもどうにもならぬ虚無感に陥りがちであつた。その頃、用事もあまりなかつたし、事務室へも滅多に姿を現さなくなつてゐた。たまに出て来れば、新聞を読むためであつた。ドイツは既に無条件降伏をしていたが、今この国では本土決戦が叫ばれ、築城などといふ言葉が見えはじめてゐた。正三は社説の裏に何か真相のにほひを嗅ぎとらうとした。しかし、どうかすると、二日も三日も新聞が読めないことがあつた。これまで順一の卓上に置かれてゐた筈のものが、どういふものか何処かに匿されてゐた。
絶えず何かに追ひつめられてゆくやうな気持でゐながら、だらけてゆくものをどうにも出来ず、正三は自らを持てあますやうに、ぶらぶらと広い家のうちを歩き廻ることが多かつた。……昼時になると、女生徒が台所の方へお茶を取りに来る。すると、黒板の塀一重を隔てて、工場の露路の方でいま作業から解放された学徒たちの賑やかな声がきこえる。正三がこちらの食堂の縁側に腰を下ろし、すぐ足もとの小さな池に憂鬱な目ざしを落してゐると、工場の方では学徒たちの体操が始まり、一、二、一、二と級長の晴れやかな号令がきこえる。そのやさしい弾みをもつた少女の声だけが、奇妙に正三の心を慰めてくれるやうであつた。……三時頃になると、彼はふと思ひついたやうに、二階の自分の部屋に帰り、靴下の修繕をした。すると、庭を隔てて、向の事務室の二階では、せつせつと立働いてゐる女工たちの姿が見え、モーターミシンの廻転する音響もここまできこえて来る。正三は針のめどに指先を惑はしながら、「これを穿いて逃げる時」とそんな念想が閃めくのであつた。
……それから日没の街を憮然と歩いてゐる彼の姿がよく見かけられた。街はつぎつぎに建ものが取払はれてゆくので、思ひがけぬところに広場がのぞき、粗末な土の壕が蹲つてゐた。滅多に電車も通らないだだ広い路を曲ると、川に添つた堤に出て、崩された土塀のほとりに、無花果の葉が重苦しく茂つてゐる。薄暗くなつたまま容易に夜に溶け込まな
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