らすといい」と順一も云つてくれた程だし、一こと彼が西崎に命じてくれれば直ぐ解決するのだつたが、己の疎開にかまけてゐる順一は、もうそんなことは忘れたやうな顔つきだつた。直接、西崎に頼むのはどうも気がひけた。高子の命令なら無条件に従ふ西崎も康子のことになると、とかく渋るやうにおもへた。……その朝、康子は事務室から釘抜を持つて土蔵の方へやつて来た順一の姿を注意してみると、その顔は穏かに凪いでゐたので、頼むならこの時とおもつて、早速、鏡台のことを持ちかけた。
「鏡台?」と順一は無感動に呟いた。
「ええ、あれだけでも速く疎開させておきたいの」と康子はとり縋るやうに兄の眸を視つめた。と、兄の視線はちらと脇へ外らされた。
「あんな、がらくた、どうなるのだ」さういふと順一はくるりとそつぽを向いて行つてしまつた。はじめ、康子はすとんと空虚のなかに投げ出されたやうな気持であつた。それから、つぎつぎに憤りが揺れ、もう凝としてゐられなかつた。がらくたといつても、度重なる移動のためにあんな風になつたので、彼女が結婚する時まだ生きてゐた母親がみたててくれた記念の品であつた。自分のものになると箒一本にまで愛着する順一が、この切ない、ひとの気持は分つてくれないのだらうか。……彼女はまたあの晩の怕い順一の顔つきを想ひ浮かべてゐた。
それは高子が五日市町に疎開する手筈のできかかつた頃のことであつた。妻のかはりに妹をこの家に移し一切を切廻さすことにすると、順一は主張するのであつたが、康子はなかなか承諾しなかつた。一つには身勝手な嫂に対するあてこすりもあつたが、加計町の方へ疎開した子供のことも気になり、一そのこと保姆になつて其処へ行つてしまはうかとも思ひ惑つた。嫂と順一とは康子をめぐつて宥めたり賺せたりしようとするのであつたが、もう夜も更けかかつてゐた。
「どうしても承諾してくれないのか」と順一は屹となつてたづねた。
「ええ、やつぱし広島は危険だし、一そのこと加計町の方へ……」と、康子は同じことを繰返した。突然、順一は長火鉢の側にあつたネーブルの皮を掴むと、向の壁へピシヤリと擲げつけた。狂暴な空気がさつと漲つた。
「まあ、まあ、もう一ぺん明日までよく考へてみて下さい」と嫂はとりなすやうに言葉を挿んだが、結局、康子はその夜のうちに承諾してしまつたのであつた。……暫く康子は眼もとがくらくらするやうな状態で家
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