い空間は、どろんとした湿気が溢れて、正三はまるで見知らぬ土地を歩いてゐるやうな気持がするのであつた。……だが、彼の足はその堤を通りすぎると、京橋の袂へ出、それから更に川に添つた堤を歩いてゆく。清二の家の門口まで来かかると、路傍で遊んでゐた姪がまづ声をかけ、つづいて一年生の甥がすばやく飛びついてくる。甥はぐいぐい彼の手を引張り、固い小さな爪で、正三の手首を抓るのであつた。
その頃、正三は持逃げ用の雑嚢を欲しいとおもひだした。警報の度毎に彼は風呂敷包を持歩いてゐたが、兄たちは立派なリユツクを持つてゐたし、康子は肩からさげるカバンを拵へてゐた。布地さへあればいつでも縫つてあげると康子は請合つた。そこで、正三は順一に話を持かけると、「カバンにする布地?」と順一は呟いて、そんなものがあるのか無いのか曖昧な顔つきであつた。そのうちには出してくれるのかと待つてゐたが一向はつきりしないので、正三はまた順一に催促してみた。すると、順一は意地悪さうに笑ひながら、「そんなものは要らないよ。担いで逃げたいのだつたら、そこに吊してあるリユツクのうち、どれでもいいから持つて逃げてくれ」と云ふのであつた。そのカバンは重要書類とほんの身につける品だけを容れるためなのだと、正三がいくら説明しても、順一はとりあつてくれなかつた。……「ふーん」と正三は大きな溜息をついた。彼には順一の心理がどうも把めないのであつた。「拗ねてやるといいのよ。わたしなんか泣いたりして困らしてやる」と、康子は順一の操縦法を説明してくれた。鏡台の件にしても、その後けろりとして順一は疎開させてくれたのであつた。だが、正三にはじわじわした駈引は出来なかつた。……彼は清二の家へ行つてカバンのことを話した。すると清二は恰度いい布地を取出し、「これ位あつたら作れるだらう。米一斗といふところだが、何かよこすか」といふのであつた。布地を手に入れると正三は康子にカバンの製作を頼んだ。すると、妹は、「逃げることばかり考へてどうするの」と、これもまた意地のわるいことを云ふのであつた。
四月三十日に爆撃があつたきり、その後ここの街はまだ空襲を受けなかつた。随つて街の疎開にも緩急があり、人心も緊張と弛緩が絶えず交替してゐた。警報は殆ど連夜出たが、それは機雷投下ときまつてゐたので、森製作所でも監視当番制を廃止してしまつた。だが、本土決戦の気配は次第
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