はその時だけちよつと片附けてみるものの、部屋はすぐ前以上に乱れた。仕事やら、台所やら、掃除やら、こんな広い家を兄の気に入るとほりには出来ない、と、よく康子は清二に零すのであつた。……五日市町へ家を借りて以来、順一はつぎつぎに疎開の品を思ひつき、殆ど毎日、荷造に余念ないのだつたが、荷を散乱した後は家のうちをきちんと片附けておく習慣だつた。順一の持逃げ用のリユツクサツクは食糧品が詰められて、縁側の天井から吊されてゐる綱に括りつけてあつた。つまり、鼠の侵害を防ぐためであつた。……西崎に縄を掛けさせた荷を二人で製作所の片隅へ持運ぶと、順一は事務室で老眼鏡をかけ二三の書類を読み、それから不意と風呂場へ姿を現はし、ゴシゴシと流し場の掃除に取掛る。
……この頃、順一は身も心も独楽のやうによく廻転した。高子を疎開させたものの、町会では防空要員の疎開を拒み、移動証明を出さなかつた。随つて、順一は食糧も、高子のところへ運ばねばならなかつた。五日市町までの定期乗車券も手に入れたし、米はこと欠かないだけ、絶えず流れ込んで来る。……風呂掃除が済む頃、順一にはもう明日の荷造のプランが出来てゐる。そこで、手足を拭ひ、下駄をつつかけ、土蔵を覘いてみるのであつたが、入口のすぐ側に乱雑に積み重ねてある康子の荷物――何か取出して、そのまま蓋の開いてゐる箱や、蓋から喰みだしてゐる衣類……が、いつものことながら目につく。暫く順一はそれを冷然と見詰めてゐたが、ふと、ここへはもつと水桶を備へつけておいた方がいいな、と、ひとり頷くのであつた。
卅も半ばすぎの康子は、もう女学生の頃の明るい頭には還れなかつたし、澄んだ魂といふものは何時のまにか見喪はれてゐた。が、そのかはり何か今では不逞不逞しいものが身に備はつてゐた。病弱な夫と死別し、幼児を抱へて、順一の近所へ移り棲むやうになつた頃から、世間は複雑になつたし、その間、一年あまり洋裁修業の旅にも出たりしたが、生活難の底で、姑や隣組や嫂や兄たちに小衝かれてゆくうちに、多少ものの裏表もわかつて来た。この頃、何よりも彼女にとつて興味があるのは、他人のことで、人の気持をあれこれ臆測したり批評したりすることが、殆ど病みつきになつてゐた。それから、彼女は彼女流に、人を掌中にまるめる、といふより人と面白く交際つて、ささやかな愛情のやりとりをすることに、気を紛らすのであつた。半年
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