してゐるだけだ」家に帰ると正三は妹の前でぺらぺらと喋つた。

 今にも雨になりさうな薄暗い朝であつた。正三はその国民学校の運動場の列の中にゐた。五時からやつて来たのであるが、訓示や整列の繰返しばかりで、なかなか出発にはならなかつた。その朝、態度がけしからんと云つて、一青年の頬桁を張り飛ばした教官は、何かまだ弾む気持を持てあましてゐるやうであつた。そこへ恰度、ひどく垢じみた中年男がやつて来ると、もそもそと何か訴へはじめた。
「何だと!」と教官の声だけが満場にききとれた。「一度も予習に出なかつたくせにして、今朝だけ出るつもりか」
 教官はじろじろ彼を眺めてゐたが、
「裸になれ!」と大喝した。さう云はれて、相手はおづおづと釦を外しだした。が、教官はいよいよ猛つて来た。
「裸になるとは、かうするのだ」と、相手をぐんぐん運動場の正面に引張つて来ると、くるりと後向きにさせて、パツと相手の襯衣を剥ぎとつた。すると青緑色の靄が立罩めた薄暗い光線の中に、瘡蓋だらけの醜い背中が露出された。
「これが絶対安静を要した躯なのか」と、教官は次の動作に移るため一寸間を置いた。
「不心得者!」この声と同時にピシリと鉄拳が閃いた。と、その時、校庭にあるサイレンが警戒警報の唸りを放ちだした。その、もの哀しげな太い響は、この光景にさらに凄惨な趣を加へるやうであつた。やがてサイレンが歇むと、教官は自分の演じた効果に大分満足したらしく、
「今から、この男を憲兵隊へ起訴してやる」と一同に宣言し、それから、はじめて出発を命じるのであつた。……一同が西練兵場へ差しかかると、雨がぽちぽち落ちだした。荒々しい歩調の音が堀に添つて進んだ。その堀の向が西部二部隊であつたが、仄暗い緑の堤にいま躑躅の花が血のやうに咲乱れてゐるのが、ふと正三の眼に留まつた。

 康子の荷物は息子の学童疎開地へ少し送つたのと、知り合ひの田舎へ一箱預けたほかは、まだ大部分順一の家の土蔵にあつた。身のまはりの品と仕事道具は、ミシンを据ゑた六畳の間に置かれたが、部屋一杯、仕かかりの仕事を展げて、その中でのぼせ気味に働くのが好きな彼女は、そこが乱雑になることは一向気にならなかつた。雨がちの天気で、早くから日が暮れると鼠がごそごそ這ひのぼつて、ボール函の蔭へ隠[#「隠」は底本では「陰」と誤植]れたりした。綺麗好きの順一は時々、妹を叱りつけるのだが、康子
前へ 次へ
全30ページ中13ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
原 民喜 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング