きいただけでも真青になって逃げて行ったが、あの頃の恐怖の純粋さと、この今の恐怖とでは、どうも今では恐怖までが何か鈍重な枠《わく》に嵌《は》めこまれている。――そんな念想が正三の頭に浮ぶのも数秒で、彼は息せききらせて、堤に出る石段を昇っている。清二の家の門口に駈けつけると、一家|揃《そろ》って支度を了《お》えていることもあったが、まだ何の身支度もしていないこともあった。正三がここへ現れると前後して康子は康子でそこへ駈けつけて来る。……「ここの紐《ひも》結んで頂戴《ちょうだい》」と小さな姪が正三に頭巾を差出す。彼はその紐をかたく結んでやると、くるりと姪を背に背負い、皆より一足さきに門口を出て行く。栄橋を渡ってしまうと、とにかく吻《ほっ》として足どりも少し緩《ゆる》くなる。鉄道の踏切を越え、饒津《にぎつ》の堤に出ると、正三は背負っていた姪を叢に下ろす。川の水は仄白《ほのじろ》く、杉の大木は黒い影を路に投げている。この小さな姪はこの景色を記憶するであろうか。幼い日々が夜毎《よごと》、夜毎の逃亡にはじまる「ある女の生涯」という小説が、ふと、汗まみれの正三の頭には浮ぶのであった。……暫くすると、清
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