であったが、清二は『希臘芸術模倣論』を元の位置に置くと、ふとこう訊《たず》ねた。
「兄貴はどこへ行った」
「けさ電話かかって、高須《たかす》の方へ出掛けたらしい」
すると、清二は微《かす》かに眼に笑《え》みを浮べながら、ごろりと横になり、「またか、困ったなあ」と軽く呟《つぶや》くのであった。それは正三の口から順一の行動について、もっといろんなことを喋《しゃべ》りだすのを待っているようであった。だが、正三には長兄と嫂《あによめ》とのこの頃の経緯《いきさつ》は、どうもはっきり筋道が立たなかったし、それに、順一はこのことについては必要以外のことは決して喋らないのであった。
正三が本家へ戻って来たその日から、彼はそこの家に漾《ただよ》う空気の異状さに感づいた。それは電燈に被せた黒い布や、いたるところに張りめぐらした暗幕のせいではなく、また、妻を喪《うしな》って仕方なくこの不自由な時節に舞戻って来た弟を歓迎しない素振ばかりでもなく、もっと、何かやりきれないものが、その家には潜んでいた。順一の顔には時々、嶮《けわ》しい陰翳《いんえい》が抉《えぐ》られていたし、嫂の高子の顔は思いあまって茫《ぼ
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